永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

相手から何をくみ取るか

世知辛い世の中で、心にゆとりが持てない人が増えてきましたね。

少し、虫の居所がわるいと店員さんに当たり散らすというケースも多いみたいですね。

悪質なクレームは、是々非々で、きちんと対応する必要がありますね。

また、老婆心から出てくる苦言と言うモノにどのように向き合うかというお話です。

相手は、どのような状況で困っているかを読むチカラの発揮する場面ですね。

なぜ、私に言ってくださるのか?

どうして、言って下さる気持ちになったのか?

そして、どのような改善を期待して下さっているのか?

などを話の内容を理解しながら、イメージを作り上げていく必要がありますね。

一番大切なのは、気持ちの部分でしょうね。

あることがあって、どのような違和感を抱き、不快な思いをしたのか?

まずは、順序立てて、ジックリ聴くことからですね。

もう一つ大切なコトは、弾みの思いつきで確約しないなどの要素もありますね。

予想以上の宝物が出てくる可能性もありますから、くれぐれも慎重にジックリと真摯にを心がけたいですね。

悲しみを悲しみとして感じる

『とても悲しい曲-ショパン-は、その悲しみを楽しめばいい。(ウンベルト・エーコ)世界の名言名句1001p944より』

表現者の喜怒哀楽をそのまま感じればいいと言うことなのでしょうか?

イタリアの哲学者・エッセイスト・文芸評論家・小説家のウンベルト・エーコは、インタビューの中で、ショパンの作品には「とても悲しい曲がある」といい、たとえ、その感情(後悔・孤独・悲しみ)自体は、喜ばしいと思えなくても、音楽が表現する感情を楽しむいう内容を言及した。

感受性豊かな人は、その旋律に触れただけで、共感し、洪水のごとく落涙したりする。

喜怒哀楽を表現するのは、表現者に委ねられている。

一方、聴き手には、選択権がある。

それぞれが、それぞれで良いわけです。

色々な表現者の感性に触れることが、自分の幅を広げるというならば、選り好みを少し控えてみるということですね。

今まで、聞き逃していた音源が楽しめるという考え方もあります。

それぞれの許容範囲の中で、少しでも広がる世界観が増えるのも良いかもしれません。

権力に乗っ取られている権威

『権威とは一種の優しさです。人の心を暖め、やる気を起こさせ、何とかしてその心に届こうとする優しさの一念に触れた時、人は安心し、感謝し、恐縮し、更に、服従せざるを得ない思いを抱くでしょう。権威とは本来そういうものです。…(藤木三郎著『神の風景208p』)』

身近な権威は、医師なのかも知れませんね。

生化学検査や画像診断から医療方針が提示されると、ほふり場に引かれる羊のように、別な選択が難しくなる人が多いことでしょうね。

または、先生と呼ばれる存在かも知れません。

ある分野で、自分よりも長けていると感じると、「それでも…」とか「恐れながら…」とは申し上げにくいこともありますね。

人によっては、「家庭内大蔵省」であったり、「かみさんという名のかあちゃん」であったりするのですね。

自分には、一切の権威はないと感じている人も多いようですが、一人一人、それなりの権威はあるのですね。

それを等身大に生かすかどうかという課題がありますね。

多くのトラブルは、自分の範囲を超えた部分を力で押し切るという所から始まるように考えています。

これこそ、権威を権力が乗っ取るという現象ですね。

キャットと仲良しのミーアキャット

youtu.be

以前に、雪に驚いたミーアキャットのように遠くを見るネコちゃんを紹介しました。

この動画は、名前にキャットとつくモノ通しの絆を感じてしまいます。

生きもの同士は、案外このような感じかも知れませんね。

外見で判断してしまうのが、人間の良くない傾向だとすれば情けない感じもします。

「いのちに姿や形など関係ない」と言われているようにも感じます。

人間は、あくまで善人ぶっても、利を求める生きものなのかも知れませんね。(私のこと)

愛の行為よりも動機が大切

『たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。…今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13:1-13抜粋新改訳2017)』

誤解を避けるために、愛を表すことは大切です。

時には、その動機が自分のどこにあるかも、探ってみると意外な発見に繋がるコトがあるというお話です。

引用箇所は、「愛の章」と言われる第一コリント13章です。

式典などでよく引用される箇所で、聞き覚えがあるかも知れませんね。

この「愛」を何と考えるかで、大きな違いが出てきますね。

この愛という意味合いは、神の愛に繋がる愛というニュアンスです。

人間の表面上の同情などの愛よりも、もっともっとDeepな愛なのですね。

「信仰と希望と愛」と並べて、「その中で一番すぐれているのは愛」と結んでいるのは、「愛の源である存在の神」は、永遠から永遠の存在であり、それよりもすぐれた愛はないからなのですね。

その愛の注ぎを毎日味わっているのが、信仰者なのですね。

その愛を実感できないと、薄っぺらな愛を振り回してしまうことになるのですね。

音楽は怒りを鎮める魔法だ

『音楽は怒りを静める魔法だ(ウイリアム・コングリーブ作 唯一の悲劇「喪服の花嫁」の冒頭のことば)世界の名言名句1001p907より』

劇中のスペインのグラナダの王女アルメリアは、大切な人を亡くした。

音楽が人の心を慰めることに言及するが、音楽に喜びも慰めも見いだせないほど、彼女の悲しみは深い。

というのが悲劇「喪服の花嫁」のストーリーです。

音楽は、心に届き、喜怒哀楽に語りかけるのですね。

「怒りを静める」というワードで、出てくるのは、イスラエル初代王サウルのことですね。

彼は、勇士でしたから、向かうところ敵なしだったはずが、王座を奪われるという恐怖感に取り憑かれていました。

それで、羊飼いをしていたダビデが琴を奏でて慰めていたのです。

それでも、ひとときは落ち着きを取り戻しても、また、再発したのですね。

以下の箇所にありますのでご覧ください。

『◆ダビデ、サウルに仕える 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。(1サムエル16:14-23新共同訳)』

 

どこで学ぶかよりも、何を学ぶか

○○大学に入ったとか、自慢のタネになりますね。

あるいは、就職や結婚などでアドバンテージがあるかも知れません。

しかし、場所よりも、内容が大切だと思いませんか?

もちろん、整った環境での勉強は、充実した時間でしょう。

最も大切なのは、何を習得、会得、体得していくかではないでしょうか?

職人には職人の道があります。

それは、ベテラン職人の側で、見ながらマネをしながら、失敗しながら、一歩一歩ベテラン職人に近づいて行くという道なのですね。

最近は、技術の進歩で、ベテラン職人が作るもののようなモノは、再現できるみたいですが、似て非なる要素もあるようです。

また、同じようなことを学んでいても、一人一人、違うモノを習得しているという現実もあります。

人間は、それぞれに、センサーや価値観が違うので、気になるコトも、取り込む情報も違うのですね。

「いくつになっても、学べるし、成長できる」という前向きな姿勢こそ、人生に張りと活力をもたらすのですね。