永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ユーモアは簡単なようで奥深い

お笑いとユーモアは、方向性は似ていても同一ではないと考えています。

また、ユーモアは、万人共通に通用するのでもありません。

自分がユーモアのつもりで、表現したことも、不快に感じられたりして、不発どころか、総スカンなんて悲しい結果をだすこともありますので注意が必要ですね。

志村けんさんのお笑いの原点は、「言葉が通じない人と時間を持て余した時に、おならが出てしまい。結果的に、場が和んで、打ち解けて、いい雰囲気になった」ことだと聞いたことがあります。彼なりのユーモアを感じる部分もあります。

ことばという、コミュニケーション手段が通用しなかった所に、万人共通の「おなら」という要素が、共感を生み出したのでしょうね。

人を何とか笑わせたいという動機が、緊張感を緩和して場を和ませるコトだったりしますね。

すさんだ雰囲気で育った芸人さんは、「少しでも、場を和ませようと、お笑いを志した」ということもありますね。

お笑いもユーモアも、送り手受け手が、うまくマッチするところに、大切な要素があるように考えています。

筆者は、ケツバットなどの体罰系のお笑いは、引いてしまいます。

もっと、ほんわかしたユーモアを求めているのかも知れませんね。

親子関係の要素

子にとって親は生命線です。

生物学的な親と養育者としての親、または、思考・思想的なモデルとしての親という役割がありますね。

生物学的な親は、血縁を表します。「血は争えない」とも言いますね。

養育者としての親は、「おぎゃー」とこの世に生まれ出たいのちを成人へと育んでいく役割ですね。

成長する過程で受ける刺激に対して、どのような思考・思想を確立していくかのモデルとしての役割もありますね。

言わば、血縁は先天的なものでDNAとして受け継いだ要素です。

養育者として、あるいは、思考・思想のモデルとしての役割は、後天的な要素ですね。

後天的な要素は、生活習慣にも密接に関係してきます。

それは、飲酒・喫煙・ギャンブル・DVなども含み、生活習慣病や依存症にも影響するというのですね。

また、対人恐怖なども、後天的要素としてコピーしますから、その後の生涯に深刻な影響を与えることもあります。

自分の今の不安感がどの辺りから影響を受けているかの想像がつけば、対策が立てられるかも知れません。

生物学的な親と養育者が違うという方もいますが、例え、同一の親だとしても、この要素を分けて考えてみると、今まで、気づかなかったことにたどり着ける可能性が出てきますよ。

祈りを願いから救い出す

『祈りと願い
ああしたい、こうなりたいと、いろいろ考えていますが、それを願いにするのが祈りなのでしょうか。そういう面も祈りにはあるでしょう。しかし、もしそれだけなら祈りとは何と汚れたものでしょう。祈りとは、むしろそれだけのものになり下がってしまうことをよしとしない心の抵抗であり、人としての本来を求める憧憬であり、永遠なるものに誘われてゆく魂の高揚であった筈です。人が「願い」といわずに、「祈り」ということばを使った時、そこにはそういう倫理性があった筈です。「祈り」を「願い」から救い出さねばなりません。(神の風景200p…藤木三郎 著)』

信仰の動機の多くは、御利益信仰かも知れません。

その願望を携えて、求道をするのですね。

それに、応える教職者達は、「願いは天に通じる」とか「修行をすれば叶う」などとアプローチをするケースもあります。

なぜなら、「御心次第」という真理を説くと、そこで、関係が途絶えてしまうことを懸念してのこともあるのかも知れませんね。

癒やしの集会という中に、ゲストスピーカーが祈ると、集団催眠状態になり、得がたい体験ができるというモノがあります。

過去の集会で、「アリーナ席の人は全員倒れた」という目撃情報もありました。

参加した人が、時間とお金を使い、得がたい体験をして、良かったという実感ができたのなら、それはそれで良いのです。

しかし、主催者側のそこから、何かを取り込もうという誘導に被害が出ないことを願います。

藤木三郎師の『「祈り」を「願い」から救い出さねばなりません。』は、筆者も同感です。

自分の願望を持ち、目標に向かって祈り、自分なりに努力をしていくが、それが成るかどうかは、神の御心の時という原則は、聖職者なら心得ている筈なのですが、そうではない現実があまりにも多く、それに、苦しんでいる人がいるのが現状なのです。

神の平安と祝福が豊かにありますように。

ロシアのブランコ

mobile.twitter.com

ロシアで雪深いところで、ブランコをする子どもです。

雪が多い季節は、必要な場所を掘るのですね。

筆者なら、この大雪を口実にして、家に立てこもりたいところですが、子どもはいつだって元気ですからね。

「ブランコしたい!」という子どもの願いを実現してしまうロシアの大人力スゴいですね。

雪だるまとか雪合戦ではなく、ブランコ遊びというのが「?」ですが、民族性などの理由があるのかも知れませんね。

孫の世話は長生きの助けにもなると言われるが…

夫婦共働きが増えた子育て世代ですが、サポーターの有る無しで大きな差があるようですね。

小さいときなどは、熱があると、誰かが迎えに行かなければなりません。

スタンバイできるサポーターがいる人は、仕事の席が外せないときでも有難いですね。

「女性の活躍」などと言いますが、老若男女が助け合って活躍できる時代が当たり前なのでしょうけれど、見聞きする現実はほど遠いようですね。

子どもを預かって面倒見てくれる親(孫からは祖母や祖父)の存在は非常に有難いですね。

これが、老親のためにもなっているという調査もあるようです。

膝が痛いとか腰が痛いとか言っていたおばあちゃんが、孫の世話をしだしたら、痛みを忘れたという話も聴いたことがあります。

一方、孫の世話には、体力と経済力も必要で、しばらくすると、身体もお財布もくたびれてくるというお話も聞きました。

子どもにとって、親だけではなく、多くの人が関わって様々な刺激を受ける体験は、得がたい要素でもあります。

ただ、頼りすぎて、一部にしわ寄せが粋すぎないようにも配慮が大切なのでしょうね。

参照記事:http://news.livedoor.com/article/detail/16011212/

相互依存から相互共存&共生へ

動物は、互いに依存関係にあります。

人間の場合、赤ちゃんの時は、一年近く立ち上がることができません。

その間、養育者にお世話をしてもらうのです。

しかし、やがて、自立期を迎えると、自分でできるコトが多くなり、お世話は必要なくなります。

年齢を重ねると、当たり前にできていたことも、時間がかかるようになったり、だんだん身体の自由がきかなくなって、できないことが増えていきます。

これを身近な存在の人が、サポートする必要が出てくるのですね。

ただし、生存条件のニーズを満たすための依存関係を認めつつ、精神的な共存&共生へと実感が持てていると、精神的自立状態で、自由に生きられるのですね。

別なことばで言うと「共依存」状態からは、精神的に自立することで、自由になれると言うことです。

サポートを受ける側が「何をして欲しいか?」と合わせて「どのようにして欲しいか?」「より快適な方向性は?」という気持ちのくみ取りができると、よりよい関係性ができるのですね。

これには、心のゆとりも大切ですね。

「ありがとう」と「喜んでもらえて良かった」というやり取りができるといいですね。

何を楽しみに生きるか

「肉体的生命の探求」と言えば、難しく聞こえますね。

別なことばで言うと、

毎日、何を楽しみとして生きていますか?

ということですね。

ゲームが趣味な人、写真やビデオを撮影するのが楽しいと感じる人

料理やお菓子作りを楽しみにする人、様々ですね。

最近では、「映える」ことにフォーカスをして、食べ歩きをして「Instagram」にアップして、フォロアーと、「いいね」を獲得するのが楽しいと考えている人もいるみたいです。

それぞれの楽しみがあればいいのですね。

他人から見ると、あの人、パソコンもしないし、携帯電話も持っていないし、人生で楽しいことしていないのではないか?と感じると聞くコトもあります。

無趣味を自称する人もあります。

筆者に問われれば「人とよいコミュニケーションをとること」が一つの楽しみであると答えます。

コミュニケーションは、お互いの合意が必要ですので、心地のいいコミュニケーションは多くはないですね。

伝えたいコトと伝わってしまうことは一致しませんし、対話をしていると、予想外の収穫があったりします。

まるで、金鉱を採掘している感じですね。ゴールドよりももっと興味深いモノがそこにあると魅力を感じています。