永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

「Bitte」は魔法の言葉

 

日本語では「どうも」という言葉が、多用されているようにも感じます。

ドイツ語の中では、多用できる便利な言葉があると、ドイツ大使館のツイッターで紹介されていました。

それによると、「Bitte」という言葉が非常に便利なのだそうです。

「すみません!」「Bitte!」
「何にしますか?」「Bitte?」
「どうぞ!」「Bitte!」
「お先にどうぞ」「Bitte.」
「もしもし」「Bitte?」
「え? なに?」「Bitte?」
「いかがですか?」「Bitte?」
「うそぉ? マジ?」「Bitte!?」
「どういたしまして」「Bitte.」
「お願い!」「Bitte!」

もちろん、使うシチュエーションやイントネーションなども違うのでしょうね。

何はともあれ、これを一つ覚えておくと、有力なコミュニケーションツールになりそうですね。

「先生、目が見えるようにしてください。」

『イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。(マルコ10:51-52新改訳聖書2017)』

目が見えない人は、視力がないという現実があります。

いろいろな段階があるようですが、光を感じることができるケースもあれば、光さえ感じられないケースもあるようですね。

一方、目が見える人は、明るさがないと行動に支障を来します。

停電をしたときなど、目の見えない人は、何がどこにあるか、そこまで何歩で移動できるかなど把握しているので、スムーズな行動ができたりするのです。

それでも、「目が見えたらなあ」と考えた人が前述の人です。

そこで、イエスに「先生、目が見えるようにしてください。」と願い出たのです。

即座に「…あなたの信仰があなたを救いました。」と、その願いは叶えられました。

その人は、視力を回復したのです。

今の時代の信仰者も、願いを申し上げても、すぐ叶えられるケースもあれば、叶えられないケースもあります。これは、神の判断ですから人間にはわからない範疇なのですね。

ある人は、「主よ、目が見えることが願いです。目が見えることを感謝します。」と先取りの祈りをして、近視傾向だった視力が、少しずつ、見やすくなってきたと言うことです。

創造主である神への信頼が一番大切のようですが、叶うかどうかはわかりませんが、願ってみるのも損はないですからね。

完璧主義からの脱却するために

「おぎゃあ」と言って産まれ出た時から、やがて息と引き取る時まで人間は成長し続けるのだそうです。

「おぎゃあ」と言っていた頃は、おっぱいからおむつまで、すべて、お世話になっている状態ですね。

少しづつ、失敗を重ねながら、自分でできることが増えていき、自立へと成長していくのです。

昨今では、「反抗期」という言葉は、他の言葉に置き換えができないかという議論もあります。

でも、表現は適切ではなくても、自立に向かう成長過程で、養育者の手助けを大袈裟に言うと拒絶するという驚異的な心理変化なのですね。

これに、社会性が織り込まれてくると、柔軟性が増して、他者との協業が可能になっていくのですね。

自立と協業するためのバランスがケース・バイ・ケースで非常に塩梅が難しく悩みのタネになっていることも事実です。

自分は完璧になるという方向性はいいとしても、補間してもらえる要素があれば、協力を素直に受け入れていくとスムーズに行く可能性が大きくなるのではないでしょうか?

それは、アダムの子孫である人間が背負っている重荷(罪)をメシアであるイエス・キリストに委ねるという救いの基本でもあるのですね。

世界をどのように区分するか?

天地創造から始まる聖書(バイブル)の記述によれば、ユーフラテス川の周辺に「エデンの園」が造られました。

そして、最初の人アダムが創造主である神のかたちに似せて創造され、その一部からエバが創造されました。

つまり、この世界の中には、2人の人しかいない時代があったのですね。

それから、人は増え広がりましたが、堕天使が混乱に拍車をかけたり、暴虐が満ちたという事で、ノアの時代に大洪水が起こり、人間はノアと3人の息子とその配偶者合計8名から、今の人数にまで増えてきたのです。

ですから、最初は国も国境線もなかった訳ですね。

人が増えるに従って、線引が求められるようになってきました。

創世記13:5-13によると、アブラムと甥のロトは、家畜の餌場の争いを回避するために、甥のロトに良い方を選ばせて線引をしました。

地理的要素、言語的要素、部族的要素、民族的要素などあげればいくつもあると思いますが、利害対立を収めるためには知恵が必要なのですね。

今までの歴史を見ると、国境は変わり続け、民族間の血は混じり、区分も多様になってきていますね。

人類の歴史が続く限り、人が引くラインは、変わり続けていくのでしょうね。

「〇〇らしく」のワナ

幼少の頃から、男の子は男らしくとか、女の子なら女らしくとか、大事に育てられます。

時代が時代なら、武家の子孫たちは、男子は立派な武士になれるように、女子は姫になるべく、「らしく」と養育されたのでしょうかね。

男女同権とか男女平等などと言われるようになり、「女らしく」はセクハラだなどとも言われるようになってきたようですね。職場などでも、「女だからお茶を入れて」というのは絶対にNGですね。

「〇〇らしく」の定義が明確でなく、それぞれの多様な価値観を基づいているからでしょうか?

その類で「私らしく」という問いにシンプルな回答ができる人は少数派なのかも知れませんね。

ディズニー映画の「Let it go! ありのままで」が、大ヒットして、日本語の劇中歌も多くのセールスを記録しました。

「Let it go!」には、「ほっといて」という意味もあるそうです。

www.english-speaking.jp

「ありのままで」は、「本来の私らしく」という方がわかりやすいですね。

人は、「理想の自分」と「現実の自分」のギャップに苦しみます。

前述のサイトでは、自分を抑えていたフタを取り開放するイメージなどと考察しています。

現実の自分をこれじゃあ外に出られないと鍵をかけている状態は、周囲に対して「ほっといて」という状況ですね。

それを「開放」できるようになるためには、現実の自分の状態を認めて受け入れるところが「ありのままでOK」というポイントになるのですね。

「〇〇らしく」という要求を横目で見つめながら、「私らしく」生きていきたいですね。

「過去に囚われず、未来を案じない」

「今ココ」を大切に生きる生き方ですね。

ゴルフなどのスイングが求められるスポーツでは、重心の位置が重要です。

ちょうど、体の回転とバランスが取れる位置にないと、肝心なところに最大限の力が伝わりませんね。

人生の中で大切なことは、自分のマインドの重心を「今ココ」におくことだと考えています。

誰にでも、過去があり、未来もあります。

でも、「心ここにあらず」では、身動きが取れなくなってしまいます。

もちろん、何も過去のことや未来のことを考えてはいけないのではありません。

過去を整理し、未来に活かすための整理整頓は必要なのですね。

「今ココ」に自分がいるのが「幸福」なのだと自己受容し、過去のさまざまな体験が今の自分をつくっているのだと考えると、自分の人生が加点法で評価できるのですね。

黒歴史をなんとか消し去ろうとしても、労力だけかかることです。

そのエネルギーを、自己受容に転換活用したほうが、合理的だと思いますよ。

ヘロデが「ベツレヘムの2歳以下の男児を殺せ」と言った訳

『イエスヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。…それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。…ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。(マタイ2:1-16抜粋 新改訳聖書2017)』

創造主である神の約束は、約束の土地アブラハムの子孫を祝福するものでしたね。(創世記12:1~4)

アブラハム・イサク・ヤコブ系図は、メシアであるイエス・キリストにつながるものでした。

これは、エデンの園で示された「女の子孫」が、メシアであるイエス・キリストを指していたのです。

ヘロデ王の時代にその時がやってきたのです。

祭司長も律法学者たちもよく知っていたのですね。

ヘロデ王が自己保身に走り、メシアである赤ちゃんのイエス・キリストを殺すために二歳以下の男児を殺すように命じたのですね。

 

でも、この時に創造主は、幼子イエスをエジプトに逃れさせることで、その系図はまもられたのです。

 

アブラハムの時代から、幾度も、メシアにつながる系図の分断を画策していた存在はサタンです。

 

メシアであるイエス・キリストが十字架にかかることによって、サタンの運命は確定するので、絶体絶命の必死だったのですね。

 

自己保身という同一線上に、祭司長や律法学者もいたのですから、やがて、イエス・キリストは、ローマ兵の手で、十字架に架けられることになりました。

 

絶妙のタイミングで、唯一の犠牲として、全人類の罪の罪科を贖ったのです。

  

そして、サタンの今の時代の活動は、地獄への道連れを作るのに必死なのですね。