永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ヘロデが「ベツレヘムの2歳以下の男児を殺せ」と言った訳

『イエスヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。…それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。…ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。(マタイ2:1-16抜粋 新改訳聖書2017)』

創造主である神の約束は、約束の土地アブラハムの子孫を祝福するものでしたね。(創世記12:1~4)

アブラハム・イサク・ヤコブ系図は、メシアであるイエス・キリストにつながるものでした。

これは、エデンの園で示された「女の子孫」が、メシアであるイエス・キリストを指していたのです。

ヘロデ王の時代にその時がやってきたのです。

祭司長も律法学者たちもよく知っていたのですね。

ヘロデ王が自己保身に走り、メシアである赤ちゃんのイエス・キリストを殺すために二歳以下の男児を殺すように命じたのですね。

 

でも、この時に創造主は、幼子イエスをエジプトに逃れさせることで、その系図はまもられたのです。

 

アブラハムの時代から、幾度も、メシアにつながる系図の分断を画策していた存在はサタンです。

 

メシアであるイエス・キリストが十字架にかかることによって、サタンの運命は確定するので、絶体絶命の必死だったのですね。

 

自己保身という同一線上に、祭司長や律法学者もいたのですから、やがて、イエス・キリストは、ローマ兵の手で、十字架に架けられることになりました。

 

絶妙のタイミングで、唯一の犠牲として、全人類の罪の罪科を贖ったのです。

  

そして、サタンの今の時代の活動は、地獄への道連れを作るのに必死なのですね。

ロボット型掃除機を足蹴にするネコちゃん

youtu.be

短い動画ですから、瞬き厳禁ですよ。

どうやら、ネコちゃんたちは、お取り込み中だったようです。

そこに、ロボット型掃除機が接近したのです。

これが、惑星同士なら大変ですよね。

でも、この猫ちゃんは、後足で、少しキックするだけで、ロボット型掃除機が去っていくのです。

サッカーのワールドカップ出場選手みたいなノンルックパスみたいですね。

ネコちゃんたちのコミュニケーションがどのような結末になったかはわかりませんが、撮影者の家族の微笑ましい話題にはなったことでしょうね。

「人間は道の途上にある存在」

タイトルは、ドイツの精神科医であったカール・ヤスパースのことばです。

人は、死ぬまで成長し続けると言われます。

記憶力も筋力も体の衰えがあっても、継続することで効果があるとのことです。

記憶力などは、覚えるよりも忘れるほうが多くなることもあるかも知れませんが、脳は多くの部分が未使用とされていますから、書き込める記憶領域は、まだまだあるのでしょうね。

どれだけの知識人と言われる人でも、知っていることよりも知らないことのほうが多いのでしょうね。

それが、人間なのでしょうね。

人の願望として「完全主義者」を目指そうとしますが、多くのケースでワナとなってしまいますね。

自分は、いくつになっても成長期なのだという自覚を持って、「知らないことを素直に知らない」と表現できる位置に立ちたいですね。

「成功」ということばに惑わされない

「成功」というのは過程(プロセス)に関わるものです。

「幸福」は、存在に関わるものです。

ですから、

『存在していること、生きていること自体が「幸福」であり、「成功」とは関係なく、すでに人は「幸福」で「ある」のです。』(老いる勇気…岸見一郎著p144)

資本主義の世の中は、「成功者」が持て囃される傾向があります。

ただし、「成功者」の中で、「幸福」を継続的に実感できている人は、どれだけいるのでしょうね。

生き馬の目を抜くように「成功」というプロセスは、あっという間に過ぎ去り、断崖絶壁のような崖がみえて来たりしますね。

人生には、そのような要素は付き物です。

「成功」すれば「幸福」になれるというのは、ケース・バイ・ケースということのようですね。

ならば、確実な方を大切にしたらよろしいのではないでしょうか?

「幸福」ですね。

三木清氏は、人生論ノートの中で

「…真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。」

と述べています。

つまり、「幸福」は自分の生命と一体という考え方なのですね。

叔父・叔母の心理学 ほどよい距離感

「利害関係人」という言葉があります。

それぞれの言動や行動で利益にもなり、害にもなる関係性のことです。

親子の場合、子に対して、「そんな事するんだったらお小遣いなしよ!」などが一例ですね。

ですから、子がある程度成長すれば、不用意な言動はしないようになるのケースが多いのですね。

それに対して、叔父や叔母、祖父や祖母などは、直接的な利害関係が薄いと、素直に話しやすく、聞く側もある程度、冷静に話を聞くことができるわけですね。

親子よりも、少し遠く、程よい距離感で、相対し、互いの領域に土足で踏み込まないのであれば、良好な関係性が可能なのですね。

甥っ子や姪っ子が、どんなボールを投げてきても、きちんと認めて、「それはおかしい」と頭から否定することなく、「そうなんだ。」と受け止めることができるのですね。

例え、内容に賛成できなくても、考え方を理解することから始めることができるのですね。

程よい距離感と適正な理解ができると、親子でもより良好な関わりが目指せるのではないでしょうか?

「今ここにいる。ほかに何を望もうか。」

哲学者 鶴見 俊輔 氏(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)のことばです。

「今ココ」を生きる人は、人間として理想の生き方をしている。

もちろん、人の「今ココ」は、常に移動します。

それでも、移動した先の「今ココ」を充実させられるかどうかがポイントのようですね。

環境や状況よりも自分自身がどうかが、常に問われているというのですね。

「今ここにいる。他に何を望もうか。」

からは、自分の存在を受け入れた自己受容の強さを感じます。

愛の讃歌」という有名な歌があります。

「…あなたがいれば何もいらない。あなたと二人…」

という歌詞が出てくるのですが、その気持はいつまで続くのか?と議論したこともあります。

さて、一人で自立して生きるという究極の目標は、自己受容が自然にできるようになれば、その領域に生きていけるのですね。

「比較優位」が苦しむ原因かも

ひかくゆうい【比較優位 comparative advantage】
国々はなぜ貿易を行うのであろうか。ある国はなぜ自動車や鉄鋼を輸出し,石油や鉄鉱石を輸入するのであろうか。A.スミスやD.リカード以来,経済学者の間でこの疑問に答えようとする試みがさまざまな形でなされ,国際分業の理論として展開されてきた。比較優位という考えはリカードによって初めて明確に述べられ,以後国際分業の理論の中心概念となっている。各国は外国に比べて国内で割安に生産できる財に比較優位をもち,逆に他国に比べて国内で割高につく財に比較劣位をもつといわれる。

比較優位(ひかくゆうい)とは - コトバンク

 

ものさしを変えれば、優位性が見つかるという理解をすれば、わかりやすいと考えています。

別な言い方をすると、「自分の優位性を見つけるためのものさしを探す」ということでしょうね。

それも一つの方法だと思いますが、「比較」から距離をおいてみることも大切なのかも知れませんね。

それは、人は他者との比較にとどまらず、理想の自分との比較に苦しんでいる一面もあると感じますからね。

比較をするということは、理想から現実を減点するということです。

自分が積み上げてきたことを加点していくほうが、自分の足場を踏み固めていくことができるのではないでしょうか。

失敗したなあ(結果が望ましくなかった)と思った経験も加点できるのですからね。