永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

自分が立場や地位を追われるとしたらどう考えるか?

神殿の隔ての幕が裂かれた時に、そこに携わる人々、レビ族の人たちは、どのような心境だったのでしょうね。

旧契約の時代は、民の代わりに、生け贄を捌き、贖罪の代理をするのが祭司の努めでした。その中の長が大祭司であり、年に一度、至聖所に血を携えて入り、契約の箱のフタに注いでいたのです。

それまで、大祭司以外は、目にしたことが無い、最も聖別された場所の隔てが上から裂かれ、オープンになったのです。

イエス・キリストが十字架上で、全血を注いだ時に、本体の贖罪が完了したので、不要になった隔ての幕が裂かれたのですね。

自分がその立場ならば、失職を意味しますから、残念な気持ちも味わうでしょうね。

そして、これからどうしようかと、途方に暮れることになるでしょう。

一方、贖罪が完了したのは自分のためであると理解した人たちは、喜びに包まれる訳ですね。

神に選ばれ祝福されたユダヤ民族が、秀でた能力を様々な分野で遺憾なく発揮して活躍するのも、色々な要素が複雑に絡み合ったことによるのかも知れませんね。

創造主のシナリオと人間の願望や感覚に大きなギャップがあるのです。

これが現実で、イエスの弟子達でも、すぐに御国が到来して、自分たちは、右大臣や左大臣になれると思っていたのでしょうね。現実はそうではありませんでした。

「一日は千年のごとく…」「すぐ」といわれても、その時を待つ姿勢が問われるのですね。

ユダヤ民族の歴史は、創造主に頼って助かると、いつの間にかサタンに頼って堕ちていくというくり返しでした。この本当のメシアであるナザレのイエス・キリストが十字架上で完了された贖罪を個人的に自分自身に適用して、平安と喜びを味わっていただきたいと願う次第です。