永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

一つの不幸を凝視する人 下村湖人

『世の中には、沢山の幸福に恵まれながら、たった一つの不幸のために、自分を非常に不幸な人間だと思っている人もあるし、それかとおもうと、不幸だらけの人間でありながら、自分で何かの幸福を見つけ出して、勇ましく戦っていく人もある。下村湖人次郎物語」(新潮社)』

このフレーズは、前にも取り上げたような、かすかな記憶はあります。

でも、世の中、感性が大切だと感じます。

どうしても、そこにフォーカスが向いているので、引き寄せられるのでしょう。

人間の感覚は不思議です。

それぞれが、気になる所に焦点が合って、そこに執着します。

それが、大きな要素となって、自分の価値判断の材料になるのです。

その気になる要素が「不幸」ならば、結論も「不幸」になるのです。

でも、それが「幸福」の要素であっても、実感が伴わない、もしくは乏しければ、「不幸」という判断に至るようです。

これは、「有難い」という言葉との距離感なのかも知れません。

つまり、「当たり前」が感覚の中心に座っているイメージです。

自分の周囲に起きることは、当然の事として起きているという無意識でいるのです。

でも、天からすれば必然であっても、人間としては、空気や水さえもあり得ないことだという考え方には、ナカナカ至らないことがあります。

自分にとっては、モッタイナイほど有難い事が起きたという感覚があれば、受け止め方が違うと思うのです。

私も、以前は「当たり前」という感覚を持っていました。

その時には、四面楚歌で、誰も何もしてくれないような孤立感を強く抱いていました。

でも、「有難い」という感覚を持つようになったら、孤立感からは解放されたと感じています。

不思議なモノで、「マインド転換が、心のゆとりを運んできてくれた」という事です。

このフレーズの後半の「不幸だらけの人間でありながら、自分で何かの幸福を見つけ出して」いくという部分は、マインド転換です。

多くの人が「不幸」を感じる要素の中に、「幸福」を見つけ出せる感覚やマインドがある人がいるのですね。

願わくば、その様な人になっていきたいと考えています。


次郎物語』(じろうものがたり)は、下村湖人による日本の長編教養小説である。全五部、未完。
概要 1936年(昭和11年)大日本連合青年団の機関誌『青年』誌上で第一部にあたる『次郎物語』が連載され、1941年に出版される。のち小山書店発行の雑誌「新風土」誌上で1942年(昭和17年)年の第二部『続次郎物語』から1949年(昭和24年)3月の第四部まで連載され、第五部は大法輪閣発行の仏教総合誌「大法輪」誌上で1953年(昭和28年)3月から1954年(昭和29年)まで連載された。
幼少期に里子に出された主人公・本田次郎の成長を、青年期にかけて描く。湖人自身の里子体験が反映されるなど、自伝的色彩が濃い。児童文学として読まれることも多い。

次郎物語 - Wikipedia