永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

消し合う関係性からは、共存は見えてこない

「共存共生社会」が実現していない実感があります。

限定的な範囲では、良好なコミュニティが成立している場所もありますが、まだまだ、少数ではないでしょうか?

お隣同士、味噌や醤油の貸し借りがあった江戸時代を求めているわけではありませんが、もう少し、ぬくもりが感じられるような社会になって欲しいなと願っています。

もちろん、プライベートは大切です。

人生には、ワークライフバランスもプライベートとパブリックのバランスも必要ですね。

それを成立させるために、重要なテーマがあります。

それは、対人関係です。

SNSが炎上するという話を良く聞きます。炎上商法というのもあるので、炎上した要因を吟味する必要はあります。

しかし、多く聞くのは、匿名の集団が、叩く行為です。見方を変えれば、集団リンチに見える状況です。

その方向性は、叩く相手を消したいというイメージです。

「辞めろ」攻撃ですね。 住所特定とか、家族のさらしとか、さらに、攻撃を煽るような言動もあります。

その人の命が守られるように願いますが、「消すか」「消されるか」という叩き合いは不毛です。

その結末は、「そして誰もいなくなった」の世界観です。

あのミステリー小説は、アガサ・クリスティーが書いた物ですが、近年でも、ドラマの原作に採用されるほど注目されています。

それだけ、社会傾向が、偏っているのかも知れません。

まず、自分の傾向を考えてみましょう。

それは、対人関係の声かけの動機を探るとわかります。

自分は、マウントを獲りに行っていなかったか? などという検証です。

自分は自分、相手は相手という線引きができていると、自分が上か下なんて考えなくても良いはずなのですが、ついつい、自分を優位な立場だと理解したくなってしまう傾向はありませんか?

自分が得意な分野があるのは、部分的な特徴ですが、すべての主導権を手中に収めたいというのならば、支配欲の強い独裁者になってしまいます。

このところが、気に入らなければ、叩け、そして、消せ、の根元にあるものだと考えています。

共存するためには、自己受容と相互需要があれば、マウントをとらなくても、良好な関係を維持発展できるはずです。