永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

隣人としての振る舞い 箴言6:1-3

『1 わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他人のために誓約をし、
2 自分の口のことばによって、自分が罠にかかり、自分の口のことばによって、捕らえられたなら、
3 わが子よ、そのときにはすぐにこうして、自分を救い出せ。あなたは隣人の手に陥ったのだから。さあ行って、伏して隣人にしつこくせがめ。 箴言6:1-3 新改訳2017』

「保証人になるな!が先祖からの遺言です。」という断り文句を伝承している家系もあります。

保証人になって、破綻するケースも多いようです。ですから、それが自分で負えるのかどうかを慎重に判断する必要があります。

「お金を貸すと縁が切れる」とも、よく聞きます。不思議なコトに、お金を貸さない方が、おつき合いが続くというのです。

人生においては「お金」は必要不可欠ですが、その扱い方によっては、大きな変化があるコトを考えの中に入れておく必要があります。

「良き隣人」でありたいという気持ちが強すぎると、ついついお節介に、いろいろな所に首を突っ込んでしまう傾向が出てしまいます。

それに耐えられる器量が自分自身にあれば良いのですが、それも、わきまえる必要がありますね。

保証は、他人のための誓約です。そのために、自分の口で言葉を発して、言質をとられてしまうのです。それが、履行されれば良いのですが、そのお鉢が回ってくる(保証人の債務になる)ことも可能性が大きいのです。

「しまった」と感じたときに、自分の窮状を誰に助けてもらえるのでしょうか?

この箴言で示されている「隣人」は、複数います。一人は、保証人を依頼した人であり、もう一人は、助けを請いに行く「隣人」です。

これは、創造主である神【主】に助けてもらう他に方法はありません。

それは、メシアであるイエス・キリストです。「愛」を持って「義」を完成された唯一の存在です。

肉体を持って、全人類の罪を背負い、十字架に架かり、死に、葬られ、三日目に復活されました。

その光景は、人間の視点では、「あーやっぱり死ぬのか?自分自身さえ助けられないのか?」であったり、「十字架から降りたら信じてやる」といった傲慢な態度でした。

ところが、「義」を完成させるためには必要不可欠な「完全な義人の肉体的死(唯一の犠牲)」を完成させるためだったのです。

それが、三日で神殿を再建させるというメシアであるイエス・キリスト予告通り、復活して弟子たちに現れて、昇天しました。

この箴言は、お金の保証人というよりも深い意味があるのです。

それは、人間の傷んだ魂の保証です。それを最良の隣人として、メシアであるイエス・キリストが完成されたのです。

あらゆる破綻を経験していても、すべての重荷を引き受けてくださる【主】に助けを求めることが、人生最良の選択なのだと、私は考えています。