永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

善行は、憎悪の対象 マキャベリ

『善行は悪行と同じように、人の憎悪を招くものである。 マキャベリ

有名になると言うことはリスクを伴います。有名になった人が、あることないこと、様々な批判にさらされて、イヤな思いをすることを「有名税」と言われたりします。

注目を浴びると言うことは、良いことばかりでは無いようです。

しかし、「悪名は無名に勝る」という考え方で、炎上商法を目論む人は、まだまだいます。一種の確信犯的チャレンジャーですね。個人の選択なので、意としない人を巻き込まない限りにおいてはアリでしょう。

善行でも悪行でも、注目を集める事になりますが、善行を見える形でした所で、好感度だけが上がるわけでなありません。「売名行為だ」などとの批判が出てくるのも、歴史に記されています。

悪行は、アウトローにとっての売名行為なのかも知れませんね。

批判が出てくるのは、自分ができない事に対する「羨ましい」という気持ちからではないでしょうか?

「スゴいなあと羨望の眼差し」で見ていても、だんだん気持ちの変化が出てきて「嫉妬」に変わっていくのです。

それは、一瞬のうちに変化するのです。「羨望」と「嫉妬」は、紙一重と言うことですね。

でも、その差は大きいです。

羨望は、憧れがあり「その人のようになりたい」という気持ちです。一方、「嫉妬」は、「自分が居る所に相手を引き下げてやりたい」という気持ちです。

目立つ所にいる人は、この心理を理解して行動すると、いくぶんか「ネガティブ沼」を回避できるかも知れません。

以下は、マキャベリの君主についての考察です。これもまた、人生の難しい選択ですね。

君主の気質、残酷さと憐れみ深さは、憐れみ深い評判の方が好ましい。しかし、マキャベリは、君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならないと言い、憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることを重視した方が結果的に良い。
原則的には君主は信じすぎず、疑いすぎず、均衡した思慮と人間性を以って統治を行わなければならない。「愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である」と考えられる。その理由は、利己的で偽善的な人間は、従順であっても利益がなくなれば反逆する。一方で、君主を恐れる人々にはそのようなことはない。
君主にとって信義も間違いなく重大であるが、実際には信義を気にせず、謀略によって大事業をなしとげた君主のほうが信義ある君主よりも優勢である場合が見受けられる。戦いは謀略によるものと武力によるものがあるが、この二つを君主は使い分けなければならない。もしも信義を守った結果、損害が出るならば、信義を守る必要は一切ない。重要なのは君主が立派な気質を備えているという事実ではなく、立派な気質を備えているという評価を持たせることなのである。

君主論』(くんしゅろん、伊: Il Principe, イル・プリンチペ)は、1532年に刊行されたニッコロ・マキャヴェッリによる、イタリア語で書かれた政治学の著作である。

歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(徳、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じている。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられる。

君主論 - Wikipedia