人によって価値観が異なりますから、優先順位も変わってくるのは当然ですね。
この「いのち」を自分のと捉えるか、自分の子の命と捉えるかでも変わってきますよね。
北海道の猛吹雪の中で閉ざされた父と娘、その父親は、娘の覆い被さり身を挺して、娘を暖めていて、父親は絶命したけれど、娘は生還したという出来事もありましたね。
自分のいのちを一番と考えることも否定されることではありませんから、別のケースも起きうることでしょうね。
何が絶対正解ということはないのですから、どのように「いのち」に向き合うかしかないのかも知れません。
警察官や消防隊員は、いのちを助けるために日々格闘しています。でも、当人のいのちが危険にさらされることには自衛隊員が出動する事になっていると聞いたことがあります。
人間の場合「いのち」を助けるためには、犠牲者を出してもかまわないとはなりませんので、最大限の安全措置は必要なのですね。
「…我は善き牧者なり、善き牧者は羊のために生命を捨つ。…我ふたたび生命を得んために生命を捨つる故なり。人これを我より取るにあらず、我みづから捨つるなり。我は之をすつる権あり、またこれを得る権あり、我この命令をわが父より受けたり。(ヨハネ10:11-18)」
100%神であり100%人間であったイエス・キリストは、自らの肉体的生命を差し出して、全人類の罪科をその身におき、贖いを完成してくださったのです。これは、スゴいことなのですね。