「抹殺したい!あの人がいなければ自分は幸せになれる」
なんて気持ちを経験された人も少なからずいることでしょう。
鬱陶しく絡んでくるような相手に対しては、そんな気持ちになることもあるでしょうね。
一方、あまりに良く出来る人で、自分のポジションを奪われかねないと思い込んでしまった時も、そのように思ってしまうかも知れません。
イエス・キリストが肉体で活動されていた一世紀もそのような状態だったようです。
その当時は、印刷技術も無く、口伝律法を主体に指導体制が成り立っていたようです。「ラビ」と呼ばれる先生が、弟子に伝えていくのだそうです。
ですから、律法学者たちは、自分たちがトップだと思い込んでいたのです。
そこに、イエス・キリストが肉体にて現れ、「メシア(救世主)」であると様々な活動で示したモノですから、大騒ぎになりますよね。
もし、イエス・キリストがメシアであるならば、自分たちの地位は奪われるのではないかと考えるのも無理はありませんね。
そこで、イエス・キリストを抹殺しようと、民衆を扇動し、自分たちの手ではなく異邦人であるローマ兵たちにイエス・キリストを殺させようとしたのです。
そして、死刑が決まった時、彼らは喜んだのでしょうが、それもつかの間でした。十字架に架かられて死に、葬られ、三日目に復活されるとイエス・キリストはメシアであることが確定するために、十字架に着けておいて、「もし、神の子であるなら十字架から降りろ」なんて、正反対なアプローチをしたのです。
未だに、ラビの中には「私だったら、イエス・キリストをローマに送りライオンのえさにした」なんて、口にする人もいるようです。
ただ、現実は律法学者の思い通りにならず、創造主の人類救済のためのイエス・キリストによる十字架による贖いと復活が成就されたのでした。
イエス・キリストは十字架ではなく、杭に欠けられたなんて吹聴している教団もあるのですが、それを無かったことにしたい意図が繁栄されているのでしょうね。