永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

本当の自由 トーベ・ヤンソン

『誰かを崇拝しすぎると、ほんとうの自由は、得られないんだよ。 トーベ・ヤンソン

ムーミンの作者として有名なトーベ・ヤンソンのフレーズです。

ほんとうの自由は、理想のようにも感じます。

人間社会で生きていると、何らかの不自由さが伴うからです。

あえて言うなら、「心地よい不自由」でしょうか?

それは、相手のペースに合わせたり、そのために、自分の願望を棚上げしたりすることなどもありますね。

でも、相手の満足だけにこだわりすぎると、「滅私奉公」の様相になってきます。

ここが、このフレーズのポイントなのでしょうね。

お互いの譲り合いを超えた要求は、崇拝行為にも繋がりかねません。

これを回避して、より良い、程よい自由を満喫していきたいですね。

学習性無力感 あきらめグセ

挫折が重なると人間は無力感を味わいます。

そして、いつしか、「自分なんて何をやってもダメなのだ」と思い込んでしまう事があります。

これを「学習性無力感」といいます。

「あきらめグセ」と言った方が分かりやすいですね。

個人個人それぞれに、向き不向きや得手不得手があるので、努力だけではクリアできないテーマもあります。それは、努力の方向を変えるかの軌道修正をしていくか、楽しみとしてジックリと取り組んでいくかのどれかを選ぶことになりますね。

ここで考えたいのは、自分で努力すればクリアできるテーマについてです。

でも、理解できないで、そこでつっかえている事がある、集中力が足りないとか、あるいは他の要素があって、取り組めないと言う事はありますね。

実際に、自分が置かれている状況やモノゴトがはかどらない現状を書き出して見ると
どこで止まっているかが分かるようになります。

「無意識の可視可」と言いますが、それをしていくと、自分にとって可能な方向性が探っていけます。

とにかく、「ダメだ」と思って、ゲームや動画に溺れるのは、人生をさらに難しくする要素でもあります。ですから、探り探り可能性が見える方向に一歩でも動いてみるのも必要なのかも知れませんね。

ゲームや動画から、自分の隠れていた才能を発見していく人もいますけれどね。

一方的な御業 ヨナ2:9-10

『私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします。救いは【主】のものです。」【主】は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。(ヨナ2:7-10新改訳2017)』

ヨナが「ニネベに行け」との召命を受けたのに、逃亡した後、乗船していた船が沈みそうになって海に投げ込まれ、大きな魚の中で、悔い改めの祈りをした一部です。

このストーリーも不思議に満ちていますが、創造主である神の意図と預言者としての立場、そして、人間としての葛藤が見事に描かれていますので、機会があれば聖書を手にとって、ヨナ書をご一読下さい。

「空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。」とあるのは、せっかく自分への恵みがあるのに、偶像に心を留めて恵みを捨て去ってしまうのが人間なのだと感じます。

この「自分への恵み」こそ、創造主である神が、全人類のために備えて下さった「一方的な愛の御業」に他なりません。

ヨナは、異邦人であるアッスリヤ人に対しての預言を語りたく無かったようですね。

その後の展開も、ヨナの予想とは真逆で、創造主である神の警告を聴いて、アッスリヤ人は悔い改めて助かったので、ふてくされてしまったのです。このような心の動きを筆者は「ヨナ症候群」と呼んでいます。

創造主である神は、ユダヤ人のみならず、全人類が「一方的な愛の御業」を知り、理解し、自分の恵みとすることを望んでいます。

ほんとうに、不思議に満ちていますね。

動画 ビンビンやる気が伝わってくるネコちゃん


Cat Doesn't Like Being Inside || ViralHog

グルグル回転しながら、何をしたいのかと思ってみていたら、何と外に出たかったのですね。

飼い主さんが、網戸を開放していなかったので、ここからは、出られないみたいです。

もしかして、撮影のために閉めていた???

でも、ネコちゃんなりに全力で、しなやかな動きを見せてくれています。

忍者とまで機敏な動きには感じられませんが、ネコちゃんらしい動きをしていますね。

ネコちゃんには「STAY AT HOME」は、難しいようですね。

怒りは敵 徳川家康

『怒りを敵と思へ(え) 徳川家康

戦国武将の中でも、徳川時代を始めた人ですから、色々な哲学をもっていたのでしょうね。

このフレーズは、「怒りを敵だと思え。」と言うのです。

実際には、うまく感情をコントロールしないと、集中力も削がれるし、エネルギーも奪われますから、冷静に考えれば「なるほど」と合点がいきます。

でも、戦いの場は平時でも、「常在戦場」です。

不安を煽るプロパガンダマッチポンプ)もあれば、毒をばらまくと流布したり、実際に、ばらまく輩もいますね。

マッチポンプは、石油コンロに火をつけるときに点火効率を上げるために使います。

でも、そのような流れも、この世の中で伝統的に使われてきたのですね。不安を煽りパニックを誘うような報道であったり、事実ではない事を報道して、人々を誘導したり、怒りに火をつけて煽動したりすることなどですね。

今でも、行われている手法ですね。

怒りに火がつけられて、続きの燃料が投下されると火事になります。そうなると、日常がなくなり非常事態になってしまうのですね。

このことをよく理解した上で、「怒り」の扱い方に警鐘をならしていたのでしょうね。

挫折を体験するのは生きている証し

人生には挫折が付き物と分かっていても、挫折する度に、自分の人生を恨んでしまう気持ちが沸き上がる事もありますよね。

挫折は、自分が課せられたテーマに及ばなかったり、理想とする自分に対して物足りなさを感じたり、喜んでもらいたい人をガッカリさせてしまった時に味わいます。

決して、挫折するために一生懸命しているわけではないのにです。

理想が高すぎるとか、自分の能力を遙かに超えているなども考えられますが、届かないと感じる気持ちは、ショックを感じますね。

ただし、このショックの大きさは、真剣に取り組んできた証明でもあります。


それでも、挫折は人生に付き物です。それは、生きているからこそ、生きている証しとも言えますよね。

そのように感じるだけ、自分には成長の余地があるものだと考えるのも一つの方法ではないでしょうか?

どこまで、成長できるかわかりませんが、100歳を越えている人のコメントでも、「何歳になっても、人間は完成されるモノではない。」とおっしゃっていたのが印象的でした。

AIロボットでも、成長の余地がある時代ですから、人間は生かされている限り、いつまでも変化し成長するものだと考えた方が、合理的なのかも知れませんね。

そして、希望も持てますね。

葛藤の正体 ロマ7:15-25

『わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(ロマ7:15-25新共同訳)』

人間は、肉体的生命に生かされている間は葛藤の連続です。「あーでもない」「こーでもない」などと、始終、さまざまな気持ちが交錯して、翻弄されています。

その正体が不明だと、余計にイライラしますよね。このフレーズの中にその正体が記されています。それは、「わたしの中に住んでいる罪」です。

これをやろうと思っていても、実際は違う事をしてしまっているのは、「罪」にコントロールされていると言う事なのです。

心の中で、「罪」と「神の律法」が闘っていて、「罪」が支配権を獲得することが多く、自分が思い描く理想は、罪の支配が確定した時点で、ものの見事に敗れ去るのですね。

「人間は、心の中に黒い羊と白い羊を飼っている」といった話もあります。それで、いつも「黒い羊」が勝つのだそうです。※あくまでも比喩的に「黒い羊」ダークイメージを抱いています。黒い羊が悪と言う訳ではありません。

この葛藤で、人はみな苦しんでいます。

でも、この「罪」の正体に気づけると、自分で導き出した結論を再吟味できるユトリが生まれますから、「白い羊」が勝つことも出てくるのでしょうね。