永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

葛藤の正体 ロマ7:15-25

『わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(ロマ7:15-25新共同訳)』

人間は、肉体的生命に生かされている間は葛藤の連続です。「あーでもない」「こーでもない」などと、始終、さまざまな気持ちが交錯して、翻弄されています。

その正体が不明だと、余計にイライラしますよね。このフレーズの中にその正体が記されています。それは、「わたしの中に住んでいる罪」です。

これをやろうと思っていても、実際は違う事をしてしまっているのは、「罪」にコントロールされていると言う事なのです。

心の中で、「罪」と「神の律法」が闘っていて、「罪」が支配権を獲得することが多く、自分が思い描く理想は、罪の支配が確定した時点で、ものの見事に敗れ去るのですね。

「人間は、心の中に黒い羊と白い羊を飼っている」といった話もあります。それで、いつも「黒い羊」が勝つのだそうです。※あくまでも比喩的に「黒い羊」ダークイメージを抱いています。黒い羊が悪と言う訳ではありません。

この葛藤で、人はみな苦しんでいます。

でも、この「罪」の正体に気づけると、自分で導き出した結論を再吟味できるユトリが生まれますから、「白い羊」が勝つことも出てくるのでしょうね。