永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

不安を感じること支配されないこと

「パニクる」という表現は、死語に近いのかも知れませんが、人間の弱点の一つですね。

「パニックになる」という意味の短縮形のスラングですね。

人間を無力化するためには、「不安にさせる」こと、そして、「不安に支配されるように仕向けること」という手法が、有史以来使われ続けています。

今のマスメディアは、その道具として使われています。

健康番組は、医療や医薬品の宣伝、サプリメントの斡旋などを後押ししています。

感染症のニュースは、マスクや衛生用品を買い占めに走らせます。適度な情報公開がされていないと感じる人は多いのではないでしょうか?

インサイダー取引なども規制されているように見えますが、本当のところ、インサイダーのインサイダー取引の為にメディアで操作がされてきたと考えると合点が行く部分があります。アウトサイダーインサイダー取引をしようとすると摘発されますからね。おかしな話ですが、「裏の正規ルートがある」と考えた方が理解が早いのかも知れません。

それはさておき、自分にとって大切な情報は、何かを聞き分ける知恵が必要な時代のようですね。

感染症が拡大しているとの情報を得て、防護服を着るというのは適切ではないかも知れませんから、「手洗いとうがいを励行する」など自分にとって最も有効な手段に焦点を合わせていくことが重要なことなのですね。

程よい知恵を用いたい 伝道の書(コヘレト)7:16

『あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。(伝道の書(コヘレト)7:16新改訳2017)』

過ぎたるは及ばざるごとしなどとも言いますが、何事もほどほどが良いようです。

「もっともっと」という人間の願望や欲望は際限がないこともありますね。

正しすぎる事によって、少しのつまずきや過ちで、自分自身が傷つき立ち直れない状況に陥ることもあります。また、周囲のあら探しにエネルギーの大半を注ぎ込むならば、自分が生きていくエネルギーを吸い取られ、本末転倒になりかねませんね。

誰でも知恵者と認められたい承認欲求はあるでしょう。しかし、知恵は、必要な時に用いるモノとして整理しておきたいものですね。

多くの人と対話を持つ中で感じるコトがあります。

「答え(正解)」を探している人もいますが、それよりも「共感」ポイントを探している方のが多いように感じます。一緒の立ち位置で、問題意識を共有することにニーズがあるようです。そこから、その状況からの可能性を一緒に考えることもニーズとして求められますね。しかし、重要なのは方針の意志決定は、当事者が行うということですね。

創造主である神は、土の器である人間の限界以上のことは求めておられないので、人間同士も過度の期待は持たないようにすることが大切なのですね。

もちろん、自分に対しても、向上心を大切にしながら、オーバーワークを避ける工夫が肝要です。

人間の分をわきまえて、謙遜に生きる為に必要な要素のようですね。

動画 アザラシのひらめき?


Newcastle University Discover Seals Clap Underwater

「スポン」という小気味よい音が聞こえますから、耳を傾けながら動画をご覧ください。

まるで、「あー、良いこと思いついた」なんて時に、手を「ポン」と叩くようなイメージでしょうか?

アザラシにとっては、泳いでいる中でも、一つの動作だけなのかも知れません。

真偽のほどは分かりませんが、一定のリズムで「スポン」と柏手を打っているようにも見えますね。

何かもサインなのでしょうか?

あらゆるカタチの苦しみ ロマン・ロラン

『苦しみは無限であらゆる形をとる。 ロマン・ロラン

艱難辛苦を舐めるなどと辛い経験を表現するコトがあります。肉体的生命に生かされている限り、様々な苦しみを味わうことになりますね。

次から次へと、病であったり、経済的な苦境であったり、「これでもか」というくらいに迫ってくる印象を持つ人も多いのではないでしょうか。

心頭滅却すれば火もまた涼し」というような心境になれる人は少数派でしょうから、苦しみを感じれば感じるほど、苦しみにフォーカスがピッタリと合ってしまうのかも知れませんね。

心情的には難しいですが、「苦しみは人生のつきものの座布団である」という気持ちが持てれば、苦しみの上に座って人生を過ごしていけるのかも知れません。

伝えられていないジレンマ

必要なコトを伝えているつもりでも伝わっていないことがあります。

説明不足であったり、どちらか一方の思い込みであったり、双方の思い込みが違っていたりして、ナカナカうまくいかない時もあります。

家族の間では、「あれがこうなって、これがああなった」と説明すれば通じてしまうミラクルもあるのですが、同じ空間にいる時に成立するような印象もあります。うまく伝われば、盗聴されていてもわからない、最高の暗号化通信ですね。これが、電話やメールのやり取りになると、このようにはいかないように感じます。

相手に理解してもらえるためには、どのような認識を持って、どのような説明が適切なのかを考える必要がありますね。

表現者は、自分の感性を理解してくれる人に届けたいと作品をリリースしますが、受け止める側の気持ちには、様々な開きもあるように感じますね。リリースされたアイテムに関する共感性が共通項であれば良いのでしょう。

下手な説明はかえって話を厄介にしますから、事実を的確に述べることに尽きるのでしょうね。

このテーマの葛藤は、ずっと続くのでしょうね。

剣が口から 箴言12:18

『軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒やす。(箴言12:18新改訳2017)』

コトバは、人を慰めたり、いやしたりするコトもありますが、人の心を刺してしまうことがあります。

それが正論である場合、刺された人の受け止め方次第ですね。その人が、痛みを感じながらも、教訓として生かすことができれば、それまでよりも、親密な関係性が生まれることでしょうね。

正論であっても、刺された人が、その痛みに耐えかねて、感情的に反応し跳ね返してしまうケースもあります。これは、孤立へと向かう道かも知れませんね。

正論が通用しない事が多いというのが、現実ですから、それを理解した上で、ここぞと言う時に、正論で挑む勇気が欲しいところです。

正論でなくて、人を刺して傷つけてしまうこともありますから、「口は災いのもと」という教訓を考えながら、口から吹き矢のようなコトバを出すのを気をつけたいですね。

また、コトバは人を癒やす役割もありますから、こちらの側面を磨きあげたいですね。

虚栄心と利己心 フェルナンド・テンニエス

『虚栄心は他人を鏡として使用し、利己心は他人を道具として使用する フェルナンド・テンニエス

虚栄心という言葉は、「等身大の自分ではなく、大きな自分を見せようと見栄をはること」という意味で使われますね。

利己心は、自分の利益だけを考えることで、他人の迷惑は一切かえりみないことを意味しています。

このフレーズは、身勝手な人の状態を見事に表現しているように感じます。

人の反応を鏡として利用して、自己アピールがうまくいっているかを確認するのでしょうね。そのためには、色々なアイテムで、自分をより大きく見せる為に策を弄するのですね。現実は、だまされない人の方が多数派なのかも知れませんね。

利己心が強い人は、どうすれば自分に利があるかだけを考えて、周囲の人を道具のように使い、身勝手な振る舞いをし続けます。このような関係は、長続きしないケースが多いですから、孤立への道を歩むことになりかねませんね。

人間には向上心がありますから、今よりもより良い状態を願望します。しかし、自分の等身大と乖離が大きすぎると、シークレットブーツでも履かない限りは届かないということもあります。

ステップアップしたいのなら、格好を気にするよりも、一段ずつ、段を踏みしめてマイペースでより良い状態へと近づきたいですね。