永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

海より雄大な光景がある。それは…  ヴィクトル・ユーゴー

『海より雄大な光景がある。それは天だ。天よりも雄大な光景がある。それは良心だ。 ヴィクトル・ユーゴー

「海は広いな大きいなあ」という唱歌を思い出します。離島に行ったときなどに、視界に広がった水平線を眺めるときに実感を伴います。

天の光景は、臨死体験などでも語られますが、肉体に宿っている人には、未体験ゾーンですので定かなところは分かりません。でも、このフレーズには何らかの共感性を感じます。

「海」よりも「天」、「天」よりも「良心」という言葉の運びは、神に似せて創造された人間に宿る良心の存在価値を感じさせます。これだからでしょうか。

たった一つの禁止事項に惹かれてしまう人間には良心が必要不可欠だったのでしょうね。

ここで、踏みとどまれば良いのですが、この良心の壁をチャプチャプと少しずつ誘惑が浸水してくるのですね。

良心は、別の言葉では、「規律」といえるのではないでしょうか?

それは、時には法律をこえて、その人に迫ってくることもあります。国の体制などが、正常に機能しないときもあります。そのような混乱期ほど、「良心」の発揮が必要になってくるのかも知れませんね。

お気持ちを有り難く頂戴する姿勢

人間は、様々なお気遣いに囲まれて生きています。私は、このお気持ちを有難く受け止めていきたいと考えています。逆に、モノよりも気持ちを届けるようにしたいとも考えています。

生きていく上で選択肢はあっても、絶対的な正解はどこにも見当たらないという現実があります。あの時に、どうすれば良かったかをふり返るときもあります。つまるところ、より良く軌道修正していくほか方法は見当たらないのですね。

時として、情に取り囲まれたら、囚われの身になってしまうような心境を味わうことになるかも知れませんね。

「思いやり」を自分本位に届けようとしても、相手にとっては「重いヤリ」になってしまうこともあるかも知れないので、気をつけたいですね。

義理や人情を超えた気持ちこそ心に届くモノかも知れませんね。

携挙や再臨について 1テサロニケ4:13-18

『 ◆主は来られる
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(1テサロニケ4:13-18新共同訳)』

「すぐに来る」とイエス・キリストが昇天してから、約2000年経ちました。

イエス・キリストの十字架以降は「恵みの時代」と言われています。西暦は、イエス・キリストの来臨に基づいて刻まれています。よくわかりませんが、少しのズレはあるようですね。

この時代に、イエス・キリストが私のために十字架上で死なれて、葬られ、三日目に復活したと信じる人は、もれることなく携挙されるコトになっています。これは、恵みの時代と艱難期とされる時代の狭間で起きることなのですね。

葬りの習慣は、時代によっても、世界中の地域によっても様々ありますが、死者に対する敬意や気候に配慮することが求められたりします。もう一つは、携挙の時に備えて、土葬にするという意味合いもあったのではないかと推察します。最近では、スペースの課題や衛生的な課題で、火葬にするのがポピュラーになっています。

ニュースなどで伝え聞く事件や事故や災害の状況では、ご遺体が発見されないケースもあります。それも含めて考えても、信者であれば、空中にイエス・キリストが迎えに来てくださる携挙の時に、身体を与えられるのだろうと私は信じています。であれば、土葬にこだわる必要もないし、散骨でも問題はないとも考えています。(様々な気持ちや事情には配慮する必要性も考えられますが・・)

ただ、信仰者の希望は、この空中携挙の時が、より間近になっているということです。これを念頭におきながら、歩みをすすめたいと考えています。

動画 ペンギンさん危機一髪


Penguin's Leap Of Faith

日本でも、暖冬な年は、雪がないとニュースになります。気候を変化は、どこかに原因があるのでしょうけれど、納得がいく説明はそうそう聞けるものではありませんね。

この動画は、ペンギンさんを遠景で撮影したものです。まるで引田天功のマジックショーみたいにスリル満点ですよ。ハッピーエンドになっていますので安心してみてくださいね。

寒いところはある程度寒くないと、それまで当たり前だった前提が変わってしまいますね。

北国でも、氷があっても、その上に少し雪が積もるだけで、転んでしまったときにクッションになってくれるとか? 雪がなく、氷だけだと、ケガの度合いが大きくなったりするらしいですね。

装備だけに頼ることなく、身体の柔軟性も日常的に意識しておきたいですね。

医者は人間を弱いもの、弁護士は…  ショーペンハウアー

『医者は人間を弱いもの、弁護士は人間を悪いもの、牧師は人間を愚かなものとみる。 ショーペンハウアー

職業病ということばもありますが、職業柄接する人にそのような傾向もあるのかも知れませんね。このような見方が、固定化してしまうと、人間不信に陥ってしまう危険性もありますね。

医師の場合は、患者さんの病気を癒やす為にサポートをする立場ですから、弱った状態の人を相手にしていますね。

弁護士は、できるだけ刑罰を軽くするために、無実ではなくても、無罪よりの結果を得る為に奔走しますから、人は悪いと見るのでしょうね。

牧師は、何度も懺悔に来る人を見ているので、人を愚かと評価するというのでしょうか?

では、神は人間をどのように評価するのでしょうね?

人間から神をみると、有難いと感じるよりも、裁かれるから怖いと感じる傾向が強いかも知れませんね。小さい頃からの刷り込みかも知れないですが、親が子を養育する段階で神の存在を怖いモノと伝えている影響も否定できません。

聖書を通してみると、創造主である神は、順序からすると、まず、赦す神なのですね。アダムとエバ失楽園以降、ノアに救いの方法を提示し、アブラハムを召命して、唯一の救い主であるメシアへの道筋を示し、メシアを唯一無二の犠牲として十字架に架け、全人類の罪科を贖いました。その贖いを自分の為であると受け入れるだけで救われるのです。

しかし、その方法を拒み続けるならば、その次に、さばきが待っています。それが、現実なのです。ですから、本当の神さまは、「赦す神」なのですね。

ブスの25ヶ条を反面教師に

<宝塚 ブスの25ヶ条>
1・笑顔がない 2・お礼を言わない 3・おいしいといわない 4・目が輝いていない 5・精気がない 6・いつも口がへの字をしている 7・自信がない 8・希望や信念がない 9・自分がブスであることを知らない 10・声が小さく、いじけている 11・自分が正しいと信じこんでいる 12・愚痴をこぼす 13・他人をうらむ 14・責任転嫁がうまい 15・いつも周囲が悪いと思っている 16・他人に嫉妬する 17・他人につくさない 18・他人を信じない 19・謙虚さがなく傲慢である 20・人のアドバイスや忠告を受け入れない 21・何でもないことにキズつく 22・悲観的に物事を考える 23・問題意識をもてない 24・存在自体が周囲を暗くする 25・人生においても、仕事においても、意欲がない

「清く正しく美しく」を学ぶ宝塚音楽学校の舞台裏に貼ってあるのが、「ブスの25ヶ条」なのだそうです。知人の親族が入学されたそうで、入学式の動画を見せていただきました。そこには、規律を背骨とする統率が取れた光景が見て取れました。やがて舞台に立つために必要な要素を育む場としての雰囲気を感じました。

25ヶ条は少し多いのかなと感じますが、より細かく自分自身をチェックするためには必要な項目なのかも知れませんね。これをみると、ブスというのは、姿形を形容しているのではないと感じます。

プロゴルファーの渋野日向子さんは、いつもニコニコしていると評判ですが、母親から「あなたを美人に産んであげられなかったから、せめてニコニコしていなさい。」といわれたことから、実践をしているのだそうです。ニコニコ美人ですね。

愛想良くといいますが、それは、相手の為にもなりますが、自分のマインドを整える為にも大切な要素でのあると感じています。

また、自信がないなど内面的なコンディションによって、表情が影響されるということもありますね。自分の現状を知る努力をし、謙虚に受け止めることや、責任転嫁をしない習慣をもてると、人生も別の展開が期待できそうですね。

よりよいコミュニケーションをはじめるために ヤコブ1:19

『わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブ1:19新共同訳)』

よく話す人とほとんど話さない人の組合せを見かけるものです。本当のところはどうなのかはわかりませんが、話さない人はいますね。どこかに、気持ちの表現手段を持っていれば良いのにと気になるコトもあります。

まず、「聞くのに早く」とは、「まず、聞く」ということですね。そして、とにかく聞くということです。相手の気持ちや伝えたいコト、言葉の奥にあるものまでも、聴けると最高ですね。

次に「話すのに遅く」と記されていますが、慎重にタイミングを見計らって話を切り出すというニュアンスでしょうか?相手に応答するのに、適切な対応は何かを探って、コトバを選びながら、発言をすることが大切なのですね。聴いてから考えて話すという順序ですね。

そして、「怒るのに遅いように」とまで、アンガーマネージメントで言われるように、6秒間待ってから、怒りを表現するという感じでしょうかね。相手の話の内容が、怒りに関してならなおさら、一緒に熱くなってしまわないように用心が必要かも知れませんね。

「わきまえる」という前提で、このフレーズの流れが来ていますから、わきまえていれば、まず人の話を聴き、適切な応対をし、怒りに引きづり込まれないということですね。

どのように「わきまえる」のかを、人生の中で日々研鑽をしていくのが、与えられた使命なのでしょうね。