永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

続けることの大切さと難しさを痛感…2年間の連続投稿

730日の連続投稿にチャレンジしてきました。

様々なネタに助けられた時期もありました。

時間的制約を感じて、プレッシャーを感じたこともありました。

筆者自身のネタ帳として、気づきや考察を文字に起こすという習慣づけには役に立ったように感じます。

内容については、検討が必要だと感じています。

環境も含めて、次へのチャレンジを考えております。

そのようなチャレンジの中で、世界情勢は大きく変わりました。

青天の霹靂というのは、このようなことを言うのかと感じるほどの、大国の体制の変化、そして、外交方針の大転換などが表面化してきました。

本当の平和の到来までのカウントダウンが始まったのか?と感じるほどです。

それまでの間には、水面下の大きな戦いや、平和に見える時代であったり、局部的な紛争などがあるでしょうが、やがてその時は来るのですね。

ただし、次の約束を胸に、「平和のススメ」を続けることにします。

毎日、ここに来ていただいている方々に深くお礼申し上げます。

『…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」【マタイ28:20新改訳2017】』

永遠の生命保険に加入し、いつも共にいてくださる創造主である神と、永遠の幸福マインドで「今ココ」を平和で生きることができるのは、感謝ですね。

「実に彼は神の子である。」ローマの百人隊長の告白

『しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」その中にはマグダラのマリアヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。【マタイ27:50-58新改訳2017】』

メシアであるイエス・キリストの十字架刑を一部始終見ていた一人が、ローマの百人隊長でした。

その後の諸現象も目撃して、恐れや畏敬の念を感じたのでしょうね。

他の十字架刑も監視したことがあるのかも知れません。

または、メシアであるイエス・キリストの両側の二人との差を色濃く感じたのかも知れませんね。

でも、この「この方は本当に神の子であった。」という証言は、彼の信仰告白ですね。

ローマの百人隊長は、異邦人ですから、クレネ人のシモン、十字架刑になった強盗の一人に続く、異邦人の信仰者となったのですね。

信じる者になりなさい。

『十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。…それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」エスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」【ヨハネ20:24-29新改訳2017】』

十二弟子の一人だったトマスは、良く言えば慎重派でした。

エスが復活したのを目撃した他の人の証言を信じられなかったのです。

その次の機会に、イエスがトマスの前に現れて、手と脇腹を見せながら、「触ってみなさい。」と勧めたのです。

慎重派のトマスでも、見ただけで十分だったようです。

すぐに「私の主、私の神よ。」と応答しました。

自分がトマスの立場だったら、証言を聞いた段階で信じられたでしょうか?

それは、わかりませんが、今の時代の人たちには、「見ないで信じる人たちは幸いです。」と記されているのです。

見ないで信じると言っても、今の時代の人たちには、伝承や聖書というものがありますね。

それらの情報を一人一人が丁寧に精査して、自由意志でより良い選択をすることが勧められているのですね。

世の中、からくりだらけ

youtu.be

ピタゴラスイッチ的な装置です。

ハンドスピナーを多用した先進的な装置に仕上がっています。

タイムラグや揺り戻しなど豊富なパターンで、見ていても飽きない動画です。

こういう装置をクリエイトできる才能を羨ましく思います。

からくり装置だけに多彩なからくりを盛り込んであるわけですが、この地球上にも多くのからくりが潜んでいるのでしょうね。

ベルゼブル論争 赦されない罪

『そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」【マタイ12:22-37新改訳2017】』

聖霊を冒涜する罪は赦されない」というこの箇所を使用して、組織的権威を守ろうとするリーダーがいます。この箇所の、そういう使い方は、間違っています。

口のきけない人から悪霊を追い出す行為はメシアにしかできない奇蹟だったのです。

ですから、群衆の反応は、「ダビデの子=メシア」なのだろうか?というものでした。

この反応に狼狽したのか?パリサイ人たちは、「イエスをメシアとは認めずに、悪霊共の頭であるベルゼブルに憑かれている」と流布したのです。

ユダヤ人の「タルムード」では、「イエスは魔術によって人を惑わせた」と書き、イエスが奇蹟を行ったことは否定していないのです。

これこそ、メシアであるイエス・キリストを貶める「御霊に対する冒涜」の罪だったのです。

創造主である神を神と認めずに、ベルゼブルと同一視するレッテルを公衆で貼り付けたのですからね。

その時代のユダヤ人だけが犯すことができたということです。

メシアであるイエス・キリストを当時のユダヤ人が受け入れていれば、メシア的王国が始まったのですが、この事により、御国は取り去られたのです。

その後、AD70のエルサレムの滅亡と神殿の崩壊へと至ることになったのですね。

さらに、それほど遠くない将来に、ユダヤ人は艱難時代を通る事になっているのです。

神の御国の到来を信じるものは、ユダヤ人も異邦人もメシアであるイエス・キリストの祝福にあやかることができるのです。

最高の葬りの備えをしたのは?

『さて、イエス過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」【ヨハネ12:1-8新改訳2017】』

ラザロとマルタの兄弟のマリアが300デナリ(300日分の日当≒年収)の「ナルドの香油」をイエスの足に塗った。

これこそ、最高の葬りの備えだったのです。

マリヤは、純粋な信仰の持ち主でした。イエスのことばに静かに聞き入り、復活されることを信じて、墓に足を運ばなかったようです。

『さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。…しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」【ルカ10:38-42抜粋新改訳2017】』

十字架を前にした特別なときに、埋葬の準備として、「ナルドの香油」を塗り、そして、メシアであるイエス・キリストもそれを受け入れられたのです。

この「ナルドの香油」は、王様ならば、思いのまま使うものだったようですが、庶民の場合は結婚式の夜のために用意するものだったのです。

この行為は、福音と一緒に広く全世界に宣べ伝えられるようになりました。

前よりも悪くなる事がある

『汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」(マタイ12:43-45新改訳聖書2017)』

この箇所は、バプテスマのヨハネが活躍した時代の人に向けて書かれたとのことです。

掃除された家とは、バプテスマのヨハネの働きによってきれいになったユダヤ人のことを指しています。

でも、それを空き家の状態にしておいたので、より悪い勢力に占領されてしまったのですね。

これは、紀元70年以降から現在に至るユダヤ人離散の状況をも予表していたのです。

「クリスチャンが創造主である神への信仰を疑い、教会離れた場合にどうなるのか?」

などの問いに、引用されたりするのですが、この箇所はそれには当てはまらないようですね。

離散したユダヤ人にも、それ以外の全人類にも、続けて招きのメッセージは有効です。

『神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。【Ⅱコリ 6:2新改訳2017】』