永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

律法について

エデンの園での唯一の禁止事項は「善悪を知るの樹の果実を食べてはいけない」でした。

その唯一の禁止事項を犯した人間は、さらに、アウトロー路線を突っ走って行きます。

よく言えば、冒険心の塊なのかも知れませんね。

ただ、創造主である神の保護を受けないで、「自ら天に到達する」とか、「創造主である神の上に自分を置きたい」などの強い欲望の感化を受けていたのでしょうね。

「ノアの時の洪水」や「バベルの塔」で、創造主である神が直接介入する必要が出てきたのですね。

「ノアの洪水」では、人間はノアと三人の息子とその妻達の合計8人に絞られたのです。他の人たちは、「ノアのはこぶね」に招待されたのですが、乗船しなかったのでその結果死んだのです。

バベルの塔」では、それまで、人間はヘブル語を共通言語として話していたようです。言語が同じだと、悪巧みも与しやすいので、どんどん自分たちの方法で天を目指したのですね。しかし、創造主である神が介入して、言語を多様化したので、バベルの塔の工事が頓挫することになったのですね。近い将来に、このバベルの塔が建設された地域で、世界統一政府が誕生するとも示唆されています。

しかし、この後の族長時代には、周囲から慕われていたヨブのような人もいたりして、全員が全員ワルだったのではなかったのでしょうね。

現代でも、ワルとちょい悪とまじめ風とまじめなど、様々な人間がいますね。

最近では、開き直るワルが権力を私物化していて困っている国民もいますね。

律法の原型は、イスラエル民族が「出エジプト」の後に、創造主である神から授与された「十戒」ですね。そして、生活上の規定が民数記略や申命記に記されています。

守らなければ罰という恐怖の面が強調されますが、あくまでもより安全に生活するために気をつけることと捉えないと、のびのびとは生きられませんね。

現代でも、より健全に自己愛を発揮するには、「ダメと言われているからしない」というよりは「自分の健康のためにしない」などと肯定的に考えた方が良いのではないでしょうか?

「今日は死なない」を積み重ねた

 私自身は、ずっと居場所がありませんでした。だから、摂食障害に苦しむ若い人たちの居場所をつくってあげたい、という漠然とした思いをいま持っています。
 摂食障害は人によっていろいろですし、若い人たちに伝えられるメッセージはそんなに多く持っていませんが、どうか死なないでほしい。
 「今日は、死なない」
 その積み重ねで、私は生き延びてきたように思います。

「きょうは死なない」の積み重ね 25年摂食障害に苦しんだ女性 - ライブドアニュース

中学生の時に摂食障害だと気づいたが、抜け出すのに約25年間を要したとの取材記事がありました。

「今日は死なない」と一日一日を生きてきたそうです。

語るにも適当な言葉が見当たらないほど過酷な日々だったのでしょうね。

「一日一日」ということばが印象的で、毎日の積み重ねが人生なのですね。

「今日も生かされている。今日も生きる。」とはつらつと生きたいですね。

聖書の中の記述には次のようなケースもありました。

「すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。(マタイ9:20-22【新改訳2017】)」

この女性のケースは、「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」という信仰が救ったと記されています。

ケースバイケースですが、長患いは体力的にも精神的にとても辛いものですからね。

どのような状況であれ「…にもかかわらず、今日も生きる」と生きていきたいです。

バランスはどこかで取れるらしい

youtu.be

ぶらさがった額縁に空のガラスボトルを積み重ねてバランスをとっていく様子は、思わず固唾をのんで見入ってしまいました。

これを組み合わせてバランスをとると提示されても「ムリムリ」と頭から否定しまいそうですね。

でも、この動画の男性は落ち着いてやりのけてしまいます。

成功体験とどこかで必ずバランスが取れるはずだという強い意識が働いて支えているようにもみえます。

パフォーマーやアーティストでなくても、日常で色々なバランスをとっているのですから、適切なバランスが取れているかどうかを意識したいですね。

味覚の不思議

身体のPhが酸性に傾いていると酸っぱさを強く感じるのだそうです。

つまり、アルカリに傾いている健康体の人は、あまり不快に感じる酸っぱさを味わうことはないようです。

足裏のツボも同じようなことがあり、内臓が弱っている人は、足裏のツボを刺激されると激痛を感じるのだそうです。

さて、この味覚ですが、人間の塩分濃度にも関係しているらしいのです。

自分の塩分濃度よりも味付けが濃いとしょっぱく感じたり、それよりも薄いと味気なく感じたりするようです。

甘いものを食べたあとに、甘夏でも食べたりしたら、酸っぱく感じたりするものですよね。

不思議なモノですね。

より良い食材を美味しくいただけるのは、健康な証拠ですから、感謝ですね。

新生とは

「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。…(ヨハネ3:1-15【新改訳2017】)」

フルクテンバウム師の解説によると、パリサイ派ユダヤ教には「新しく生まれ変わる方法が6つ」あるそうです。
(1)異邦人がユダヤ教に改宗したら、その異邦人は生まれ変わったと宣言される。
(2)王として戴冠式を迎える時に、その王は生まれ変わったと宣言される。
(3)ユダヤ人の成人式(バルミツバー)の儀式で生まれ変わったとされる。
(4)結婚した時に生まれ変わったとされる。
(5)ラビとしての任職を受けることで生まれ変わったとされる。
(6)ユダヤ教の神学校の校長に任命された時に生まれ変わったとされる。

彼が、知っている生まれ変わることは、(1)~(6)で、彼が対象になる(3)~(6)はすべて体験済みだったのです。

ですから、ニコデモというラビの先生がコッソリとイエスの所に来て質問をしたのです。

彼が知らなかった「霊によって生まれる(新生)」の方法をイエス・キリスト直伝で教えられたのです。

その大切な二つのステップが次の箇所に記されています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16【新改訳2017】)」

第一ステップは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」で、創造主である神の側ですでに完成されています。

第二ステップは「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」で、イエスが神の贖いの仲介者でありそのイエスを信じることで霊的に生まれ変わることができるということなのですね。

ニコデモにとっては、全く新しい解説ですから、信じるのに3年間ほどかかったようですね。

ニコデモは、やがて、十字架に架けられて死亡したイエス・キリストを葬る一人になるのです。

ただ、信じることがどれ程の葛藤を生み出すかということなのでしょうね。

創造主である神から示された「霊によって生まれる方法」は、これだけです。シンプルに「信じる」か「信じないか」のどちらかだけなのですね。

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シェパードと赤ちゃんのステキな関係

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生き物としてのお付き合いなのでしょうか?

人間の赤ちゃんもハイハイしている時には、四足歩行の仲間ですから、シェパードも親近感が湧いてくるのかも知れないですね。

言葉がなくても通じ合うというお手本のコミュニケーションだとも感じます。

シェパードの誘い方も絶妙のタイミングですよね。

コミュニケーションで大切な「距離感」や「タイミング」を会得している賢いシェパードですね。

この赤ちゃんの将来も楽しみになりますね。

孤独と孤立

一人でいると、「一人は寂しい」という固定観念を持った人がアプローチしてくるコトがあります。

人の存在単位は、「一人」ですから、一人でいても大丈夫なはずですよね。

でも、一人でいる時のマインドがキーポイントになりそうですね。

一人でいると寂しい(孤立無援)と感じる人もいれば、一人でいても生き生きとしてエンジョイできる人もいます。

寂しさを感じる人は、寂しさを解消するために、出会いを求めたり、活発に活動する人もいますが、結構疲れると漏らすケースもあります。

不思議なのは、一人でいても大丈夫という人には、人が寄ってきたりするコトがあるのですね。

適度に人付き合いもできるし、一人の時間も大切にするし、というマインドが鍛えられれば、孤立無援と感じていた状況が一変するかも知れないですよ。

いつも、繋がっていなければ不安な人口が多い時代に勇気がいるかも知れませんが、このマインド転換は、人生にとって大切だと考えています。

もう一つの要素は、創造主である神を信じる信仰者には、どこに居ても共に居てくださる存在があるのです。

ですから、一人でいても大丈夫なのですよ。

「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(【新改訳2017】マタ 28:20)」

自分に与えられている時間を有効に大切に使うという趣旨で書いていますので、無用な周囲とトラブルを構えることはおすすめしません。