ハーレーダビッドソンとか、大型のオートバイに憧れる人も多いですね。
でも、家族が心配するからと、乗るのをあきらめている方もいらっしゃいますよね。
最近は、トライクやミニカーという三輪車や四輪車の乗り物も増えてきて、ヘルメットなしでも乗れるとか?
ただ、事故があった時のことを考えると、ヘルメットは転ばぬ先の杖のようなモノかも知れませんね。
事故がないに超したことはないのですがね。
命か格好良さのどちらを選ぶかの問いでしょうか?
ハーレーダビッドソンとか、大型のオートバイに憧れる人も多いですね。
でも、家族が心配するからと、乗るのをあきらめている方もいらっしゃいますよね。
最近は、トライクやミニカーという三輪車や四輪車の乗り物も増えてきて、ヘルメットなしでも乗れるとか?
ただ、事故があった時のことを考えると、ヘルメットは転ばぬ先の杖のようなモノかも知れませんね。
事故がないに超したことはないのですがね。
命か格好良さのどちらを選ぶかの問いでしょうか?
「次の番号を文字で書きなさい 3 15 21」
との設問に
「3 よん 15 じゅうろく 21 にじゅうに」
との解答。
さんの次はよんですね。正解です。
「次の数字は何と発音しますか?」
などと、設問の文章を変える必要があるようですね。
以前に図面のコピーを依頼した時に、「A3サイズにそろえてください」とお願いしたら、A4サイズの図面までもA3に拡大されていました。
これは、依頼の仕方にも問題があったと思いました。と同時に、「何で聞いてくれなかったのーーー?」という気持ちも強かったことを思い出します。
それ以降「A3サイズ以上はA3に、A4はそのままのサイズでお願いします。」ということに改めました。
円滑なコミュニケーションには、色々な工夫が必要なのですね。
「なぜ遅刻したのですか?」
との問いかけに
「自分が到着する前にベルがなったからです。」
との返答。
確かにその通りですね。
まるで、一休さんとのやりとりみたいですね。
「どうしてベルが鳴る前に到着しなかったのか?」
と問い直す必要がありそうですね。
最近では、友人同士の待ち合わせに遅れるときに
「足をねんざしたので遅れます」
なんてLINEをおくるみたいですね。
「足をねんざしたら行けない」
のかと思いますが、頑張って来る友人を気長に待っている人も善い人なのかも知れませんね。
ジョン・F・ケネディが撃たれたのはどこですか?
との問いに
「頭」
との解答
先生が用意した解答は「ダラス」だった。
人に質問する時には、より具体的に、設問を作る必要があるのだと感じさせられます。
打たれた場所の地名なら「ダラス」でしょうけどね。
打たれた体の部位であれば「頭」でしょうね。
そもそも、アメリカ大統領で、暗殺された人たちは、中央銀行を国有化しようとして、暗殺されたようですね。そもそも、国の中央銀行が半分民間なのも不思議な話ですけどね。
「あなたが誠実な行動をするのはどんなときですか?」
と質問したら
「トイレに行った時、誰もいなくても手を洗っている」
と回答が帰ってきた。
クスッと笑ってしまいますね。さらに、これをインターネットにあげた時の書き込みの内容が深刻でした。
「オレの職場には、そんな誠実さを持っているヤツは誰もいない気がする」
さらにそれに対するレスが
「食品を扱う職場じゃありませんように」
となったというのです。
本質的に、自分の手を洗うと言うことが、どういうことなのかを理解していないのでしょうか?
人間は、思いの外、丈夫に造られているのでしょうかね。
衛生管理、感染症予防には、手洗い と うがい そして、マスク などが有効とされていますね。
人によって価値観が異なりますから、優先順位も変わってくるのは当然ですね。
この「いのち」を自分のと捉えるか、自分の子の命と捉えるかでも変わってきますよね。
北海道の猛吹雪の中で閉ざされた父と娘、その父親は、娘の覆い被さり身を挺して、娘を暖めていて、父親は絶命したけれど、娘は生還したという出来事もありましたね。
自分のいのちを一番と考えることも否定されることではありませんから、別のケースも起きうることでしょうね。
何が絶対正解ということはないのですから、どのように「いのち」に向き合うかしかないのかも知れません。
警察官や消防隊員は、いのちを助けるために日々格闘しています。でも、当人のいのちが危険にさらされることには自衛隊員が出動する事になっていると聞いたことがあります。
人間の場合「いのち」を助けるためには、犠牲者を出してもかまわないとはなりませんので、最大限の安全措置は必要なのですね。
「…我は善き牧者なり、善き牧者は羊のために生命を捨つ。…我ふたたび生命を得んために生命を捨つる故なり。人これを我より取るにあらず、我みづから捨つるなり。我は之をすつる権あり、またこれを得る権あり、我この命令をわが父より受けたり。(ヨハネ10:11-18)」
100%神であり100%人間であったイエス・キリストは、自らの肉体的生命を差し出して、全人類の罪科をその身におき、贖いを完成してくださったのです。これは、スゴいことなのですね。