永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

解放され自由を得るために

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(ヨハ8:31-36【新改訳2017】)」

人は自由意志を与えられています。

しかし、現実は自由を満喫できている人は、むしろ少数派なのかも知れませんね。

それぞれで差はあると思うのですが、自分の生育歴に囚われがあったり、親との関係に束縛などがあったり様々ですね。

対人関係をスムーズにするための距離感を取り直すことによってある程度の不要な束縛からは解放されるでしょうね。

残る最重要テーマは、自分自身との関係ですね。

分かりやすく言うと、ブレーキをかける自分とアクセルを踏む自分がいるということでしょうか?

もちろん、より安全に生きていくためには、防衛本能も大切です。

ですから、この二つの要素、アクセルとブレーキは必要不可欠なものですね。

車の運転をスムーズにするために、この要素を適切に使わないと、車に乗り込んでエンジンをかけているのに全然動かないようなコトになりかねないですね。

自由意志を発揮できるということは、この二つの要素を適切に使えるようになるというイメージでしょうね。

アダム以降の全人類が、「罪の奴隷状態」だったのを、御子イエス・キリストが解放して自由にしてくださったのですから、それが真理の本質なのですね。

ツェロフハデ(ゼロペハデ)の娘たちの主張

「マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、息子がなく娘だけであった。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアと族長たちの前に進み出て言った。「【主】は、私たちにも自分たちの親類の間に相続地を与えるよう、モーセに命じられました。」ヨシュアは【主】の命により、彼女たちにも、彼女たちの父の兄弟たちの間に相続地を与えた。マナセには、ヨルダンの川向こうのギルアデとバシャンの地のほかに、十の割り当て地があてがわれた。(ヨシ17:3【新改訳2017】)」

「聖書の中で行われる人口調査は、男しか数えないのはけしからん」

などという批判を耳にすることがあります。

しかし、この部分を見ると、ツェロフハデには息子がおらず、娘たちだけだった。

相続地を女性でも相続できるようにヨシユアに直談判したのですね。

これが正論と認められて、相続できるようになったのです。

また、各部族間で所有地が変動しないような配慮もあり、同じ部族間で結婚をして、割り当てられた所有地を守ることができるようにとの命令もあったのですね。

権利を主張することも大切ですが、配慮ある勧告にも真摯に対応する必要もあるのですね。

現在では、レビ族以外は系図がたどれなくなっていると耳にした事があります。

学ぶ時・考える時・静まる時

「大人になってから、学生時代にもっと勉強をしておけばよかった。」

などと後悔する人は多いですよね。

筆者の場合は「勉強のコツをもっと早く知りたかった」という感じです。

人間は一生の中で、必要に応じて勉強していくのですね。

何を使ってどのように学ぶかは、時と場合によって変わるのでしょうけどね。

ただ、知識だけ詰め込んでも知恵は出てきませんから、知恵を絞るためには考えるコトも大切ですね。

知識や道具を便利に工夫して、より良い環境にしていくかが、考える醍醐味ではないでしょうか。

しかし、考えるコトに疲れてしまう時がやってくることがあります。

そんな時には、勉強や考えるコトから離れて、リラックスしてみると、不思議なコトが起こるかも知れませんね。

「瞑想」とか「無」になることと説明されることもあります。

心を空っぽにするとか、思考領域の解放みたいなイメージでしょうか?

地震の後に火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。(Ⅰ列王19:12【新改訳2017】)」

 

何度もバアル神などに頼りたくなるイスラエル

「彼らがわたしを捨てて、この場所を見知らぬ所としたからである。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎なき者の血で満たし、バアルのために自分の子どもたちを全焼のささげ物として火で焼くため、バアルの高き所を築いた。このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかった。それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはやこの場所はトフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。(エレミヤ19:4-6【新改訳2017】)」

創造主にアブラハムが選ばれてからイスラエルの歴史がスタートしました。

そのイスラエルは、創造主との距離感で、状況が好転したり更に悪くなったりしています。

エジプトから出て、シナイ山モーセが律法の石版を受け取っている時でさえ、不安から金の子牛の像を作り拝んだりしていました。

その他に、よく出てくるのが、「バアル神」とか「アシラ」や「アシタロテ」などですね。

「バアル神」は、カナンの古くからの悪習で、赤ちゃんの生け贄を捧げるのです。

「バアル」という言葉の意味は、「主」や「所有者」なのですが、「豊作をもたらす神」の固有名詞として使われていたようです。

豊作のために人身御供を捧げるようなイメージでしょうか?

今日でも、そのような習慣を秘かに引き継いでいる人たちが、暗躍しています。

いつの時代でも、創造主である神を信じる信仰者がいるとも記されています。

「しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます(ロマ11:4-5新改訳2017)」

いつの時代でも主に在る民と歩めたら最高ですね。

納得できないものをやるかどうか?

日常生活の中で、納得してしている行為ばかりではないかも知れません。

しなきゃいけないと感じて、しているコトが多いですね。

すべてに納得しないから、何も手をつけないという選択肢もありますが、それを選ぶと何も動かなくなってしまうかも知れませんね。

ただ、大切なのは、誰のために、何のためにするニーズがあるのかの確認ではないでしょうか?

ある程度、自分のために、あるいは、家族のために、する必要があるからやるんだ。

というような、必要性を意識化していないと、状況に振り回されるコトになり、疲れ切る要因にもなることでしょうね。

最低限でも、自分のためにこれをするのだという納得はしておきたい所ですね。

もし、家族のニーズがあって、サポートするケースでも、自分のこととして納得してすると「やらされているという感じ」からは遠のくことができるので、精神的な疲労感からは解放されるでしょうね。

植物に学ぶ

youtu.be

発芽からの成長を25日間記録した動画です。

根っこを伸ばし始める時、まず縦の根を深く張るのですね。

そして、地表付近の横の根を伸ばしながら、地上に芽を伸ばして来るのですね。

連続で撮影していないと、見逃していることばかりですね。

植物もダンスをするように、常に動いているのですね。

「神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。夕があり、朝があった。第三日。(創世記1-11-13【新改訳2017】)」

いのちを保つための創造主のデザインは、隅々まで行き届いているのですね。

人が活かされるのも、縦の根が創造主につながる(信仰)ことからですから、縦のつながりと横のつながりとの理解が分かりやすいですね。

精神的に、または、霊的に自立するための必要な要素を考えさせられる動画ですね。

日本人は外国人がお好き

「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(Ⅰヨハネ2:17【新改訳2017】)」

「服は着るもので、服に着られちゃあいけない」なんて言われたりしますよね。

敗戦国である日本が戦後の統治でGHQが印象づけたあこがれが残っているのでしょうか?

ファッションと言えば、フランスのパリであったり、イタリアのミラノであったりしますね。

ファッション雑誌でも、日本人ではないモデルさんが掲載されていますからね。

あこがれも否定されるものではないですが、バランスは検討する必要があるかも知れませんね。

自分が好きだからとか、良いと思ったからという根拠があれば、違和感を持って見られることはないでしょうね。

でも、背伸びをしすぎて、日本人なのに、フランス人の自分になるかのような振る舞いは、ギャップが広がる方向性になりますよね。

着ている服がいくらであろうと、似合っていれば誰に何を言われる筋合いもないはずですね。

自分にしっくりくるか? 違和感を持つか? それが、ものさしの一つでしょうか?