『何らかの善を心のうちに持たない悪人はなく、何らかの悪を心のうちに持たない善人もない。 ジョセフ・アディソン』
人間には、良心があるとくり返し記していますが、その一面を説明しているフレーズですね。
人の迷いが生じるのは、この要素ではないかと考えています。
悪事に加担しかけている自分にストップをかけたり、大切な誰かの悪事をいのちをかけて止めようとしたりするのも、これなのでしょうね。
「罪滅ぼし」という言い回しにも、後ろめたさを軽減したい願望が垣間見えます。
『英国人名事典』の形容によれば、「アディソンは高潔な品性、謙虚な性格、優しい気質により多くのパトロンから指示され、文壇にも多くの友人がいた」と記されています。
また、アディソンの白大理石像(リチャード・ウェストマコット作)がウェストミンスター寺院でたてられるほどの社会貢献をした彼が見てきた人々は、多種多様だったと推察します。
「悪銭身につかず」と言われる事例は、挙げだしたらキリが無いほどです。
一時、誰かから奪い取ったお金を持て余してしまう典型的なパターンがここにあります。
まるで、お金が落ち着かず、羽が生えて、どこかに飛んで行ってしまうようなイメージです。
生前贈与で得た財産で豪遊の旅に出かけた弟息子は、聖書の中で「放蕩息子」として、ご存じの方も多いと思います。これも、状況の変化に伴う心理描写が巧みです。
でも、人生は行動してからでないとわからないことがあります。
散財してから、「しまった」と思うのか? 「良かった」と思うのかです。
清々しいほどの散財は、何かを得ないとつまらないモノです。
一時の快楽を求めて、放蕩三昧したとしても、快楽のなれの果ては虚しさだけなのかも知れませんね。
お金や快楽に群がる人たちはいても、「その人を大事に思っている者はそこには居ない」という現実を理解できたとしたら、その散財には価値が見出せるのかも知れません。
人生は何かを失ってこそ、何かを見出せるという一面があるように感じています。
人生には「次の扉を開く勇気」も必要なのかも知れないと考えています。
ジョゼフ・アディソン(英語: Joseph Addison PC PC (Ire)、1672年5月1日 – 1719年6月17日)は、イギリスのエッセイスト、詩人、劇作家、政治家、文学者。ジョゼフはジョセフ、アディソンはアジソンと訳される事もある。熱心なホイッグ党の支持者であり、アン女王の治世に友人のリチャード・スティール(英語版)と共にエッセイ新聞『スペクテイター』(1711年 – 1714年)を創刊して[1]、18世紀市民文学の基礎を確立したことで知られる[2]。