永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

自由は本当に自由か? シャルル・ボードレール

『女房は死んだ、俺は自由だ! シャルル・ボードレール

衝撃的なフレーズです。

作者は、配偶者の存在によほどのプレッシャーを感じて暮らしていたであろう事が推察できます。

生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。後に第2版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。その卑猥的、耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えることとなる。特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感と倦怠は、一種の退廃的な時代の病を表徴している。

という記事を見ると、彼の思考が偏っていたことが要因なのかも知れないとも感じます。

それぞれの背景は様々なので、それは横に置くとします。

これを見る人や聞く人が受ける印象は、どのようなモノが想像できるかを考えてみることにします。

これは、「事実の一面にすぎないのではないか?」と、私なら考えます。

実際に、その場に直面したら、存在が失われた喪失感と、現実的な手続きや、生活の変化などへの思いが先に立つのではないかと想像しますね。

自由に対する論議は様々ありますが、考え方も感じ方も人それぞれです。

また、客観的に見れば「自由」な環境にいると思うのに当事者は「不自由」を感じているケースも多々あります。

さらに、「不自由な要素」満載なのに、「自由奔放」やりたい放題の人もいます。その振る舞いは、周囲の人から顰蹙(ひんしゅく)の対象だったりします。

そこそこに、味わえる「自由」が現実的なのかも知れないと感じます。

それは、カゴの中にいる鳥というイメージではなく、適度に開放的な柵に囲まれた牧場というイメージでしょうか?

また、柵で囲まれるのは、安全を確保するという意味合いがあります。

時には、大胆にチャレンジしたいですが、ある程度の制限付きの自由が、案外、居心地が良いのかも知れませんね。


シャルル=ピエール・ボードレール(フランス語: Charles-Pierre Baudelaire(発音例)、1821年4月9日 - 1867年8月31日[1])は、フランスの詩人、評論家である。(中略)
ダンディとして知られ、亡父の遺産をもとに散財の限りを尽くし、準禁治産者の扱いを受け、死ぬまで貧窮に苦しむこととなる。(以下略)