永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

息を吐くようにウソを言う時代

「今だけ、金だけ、自分だけ」という時代の末路は、敗戦後の焼け野原なのかも知れませんね。

「テレビはウソを言わない」という人は、ずいぶん少数派になったことを期待したいです。

でも、新聞ならという人もいるでしょうね。

ある日、突然、知り合いの父親が「新聞なんてウソばっかり!」と叫んでいたと聞きました。

一体何がその様にさせたのかは、まだ分かりませんが…。

アメリカの左派マスコミを牽制している政治家がフェークニュースと声高に叫んでいました。

それが、SNSのアカウント永久凍結に繋がることになったのだろうと想像されています。

驚くコトに、そのSNSは、反社会的な活動しているとされているグループのアカウントは凍結していなかったりするのです。

すごく不思議なコトがあるのですね。

今の時代に権力を掌握しようとするならば、マスコミをコントロールする必要があります。

それは、公共放送ならば人事、民放ならばスポンサーやキャスティング、コンテンツや企画集団を巧みにコントロールして行われているようです。

そのコントロールが、自国民を助けようとしているか? その逆か?を見て判断をする必要がありますね。

アメリカでも、特に2000年以降、マスコミコントロールに歪みが出てきたようです。

そうなると、権力を掌握している人が、事実に基づかない情報を流しても、それが、あたかも正解のようにインフォメーションされていくのです。

アメリカは、イギリスから、ピューリタン清教徒)が移住してつくられたキリスト教国というイメージが宣伝されていましたが、それに逆行する出来事が多く表面化しだしたのが、先述の2000年以降と言われています。

日本の政治も、劣化に拍車がかかっている現状を非常に嘆かわしく考えている人が増えているのだろうと想像している。

そもそも、日本はアメリカなどの属国という位置づけなので、箸一本、自分の意志では動かせないような閉塞感が漂っています。

その中で、たまたま権力を掌握した人が、息を吐くようにウソを言ったり、それを幇助していた人たちが甘い汁を吸っているような時代なのです。

そのレベルは、小学生にまで「この人ウソを言っている」とバレている始末です。

全く、恥ずかしい限りです。

ウソで塗り固めた人生は、崩壊へまっしぐらですから、羨ましいと思わずに、離れる選択が「吉」なのでしょうね。

白髪は光栄の冠を考える 箴言16:31

『白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。(箴言16:31新改訳2017)』

髪の毛があるから、白髪を嘆くことができるのです。

今の時代は、簡単に髪の色を変えられるモノが身近にたくさんあります。

ナチュラル派は、白髪を一切気にしないという考え方で、着色はしないという人もいます。

また、自分を鼓舞するように、カラフルな髪の色にチャレンジする人もいます。

何とかして、以前の黒髪に留まりたいと考えている人がいるようですが、現実的には、白髪を黒に染めるのは非常に難しいのだそうです。

なので、全体的にダークブラウンにしたり、逆転の発想でグレーに染めたりする選択肢を採用するケースが多いようです。

また、体質によっても、可能不可能があるようです。

ここで出てくる「白髪」は、人生の集大成する年齢に到達したという意味で使われています。

白髪を始め、身体的にも老いを感じてきても、泰然自若として、自分の役割を忠実に生きていきたいものです。

どうしても、表面上を取り繕うために、ジタバタして、エネルギーを消費しがちです。それも、若さの内なのでしょうから、全否定されるモノではないと考えています。

でも、自分が歩んできた資産を誰かに引き継ぐという役割もあるのではないでしょうか?

それは、多額の貯金や不動産に限らず、生きてきて得た知恵の類いです。

「正義の道」と記されているのは、信仰者が確信を得て、それを日々の祈りで育んできた積み重ねをも含んでいます。

もしそれが、口先だけで、実体を伴わないなら、それは、白日の下に明らかにされてしまいます。

信仰者のメリットは、創造主である神に愛され、それを実感して自己受容し、他者を受容していくという愛の善循環です。

いくつになっても、年相応の生きがいを感じ、自分の存在価値をわきまえ、神と人の愛を味わい、充足感の中で生きることができます。そうすると、たとえ寝たきりであっても、そこでの役割を果たすコトができます。

そして、愛に包まれて、主の御許に帰ることができるのです。

白髪を嘆くよりも、与えられた栄えの冠と正義を考えていくと、また違う味わいが得られますね。

策に溺れる人間の弱さ 夏目漱石

『おれは策略で勝っても人間としては負けていた 夏目漱石

昔、プロ野球の投手をしていた人が、しみじみと語っていた事がありました。

それは、「対戦相手の強打者をアウトにしたけれども、試合には負けた」というモノでした。

一局面の勝負には勝ったけれども、チームの勝利には貢献できなかったというのです。

人生の中には、一点集中で限界を突破したけれども、結果的に赤字になったような類いの話ですね。

夏目漱石のフレーズもそのような経験を表現しているように感じます。

策略を練って、実践して勝ったという実感を得ていますね。

でも、人間としては負けていたというのですから、このフレーズからは心理的ダメージの大きさを感じます。

策略を練るときに「今だけ、金だけ、自分だけ」という極めて利己的な考え方では、視界が限りなく狭くなってしまいそうです。

また、自分を目立たせる目的だけでの振る舞いは、結果的には虚しさに自分が包まれたようになってしまいます。

自分が考えた作戦がうまくできたのに、なぜか?心が晴れないというパターンですね。

何事も、自分が自発的に、自分の利益のために取り組むのですが、もう一つ、周囲に対する配慮ができる心のゆとりを持つ努力を惜しまないようにしたいです。

なんだか、この配慮がだんだん希薄になっている時代に感じられて、さみしい気持ちを感じることがあります。

自分が感じるのですから、自分が仕掛けたことでも、周囲の誰かにとっては配慮不足かも知れませんね。

それを観察できる視点も合わせて持ちたいと考えています。

うっかり手にしていた花瓶を落として割ってしまうことがありますが、その時に、最低限、誰もケガしないような配慮を考えておきたいですね。

心地よい環境音 季節の虫の鳴き声

秋の夜長と言います。

虫の鳴き声は、夏を過ぎた秋に情緒が増すように感じます。

鈴虫などが代表格です。「リーン、リーン、リーン」と、涼しさを増してくれるようです。

虫は、気温や気候のセンサーを備えています。

雨が降ったり、気温が変化すると、鳴かなくなります。鳴けなくなるのかも知れません。

創造主である神から、生きるための知恵を授かっているのでしょうね。

日々の生活の中で、心地好い音と雑音とに分類される音があります。

これも、人それぞれのようです。

私の場合、重機の唸る音や発電機の運転音、さらに、自動車のアイドリング音などが苦手です。また、夏のセミが自分が居るすぐそばでけたたましく鳴くと、少し避難をすることもありますね。

でも、静まった夜更けに聞こえてくる鈴虫の鳴き声は、心地よく感じます。

聴こうと意識していなくても、聞こえてきて心地好いという音に囲まれていると穏やかな気持ちになれます。

思いの外、世の中は警告音や警戒音が溢れかえっているのでしょうね。

必要不可欠な救急車や緊急車両のサイレンや警報アナウンスの速報音など、工夫して耳障りになる音にしています。

また、お店のBGMやアナウンスは、くり返しくり返し、大きな音で客に容赦なく迫ってきます。

一方。いつもお店にいる店員さんは、不思議なコトに、いつものくり返し店内放送をノイズとしてキャンセルしているということです。

不思議なメカニズムだなあと感心します。

店員さんの嘆きは、インカムを常時入れているので、片耳が難聴になってしまうコトだと言っていました。

周囲の人の声も必要以上に大きいと、大切な会話に支障がでることもあります。

適度なボリュームで、周囲に配慮もしたいですね。

自然界の音、生活音、少し距離のある所の子どもの元気な声などは、エネルギーを感じます。

音にも、適度な音量や距離感が大切なのですね。

本物の幕屋は天にある 黙示録21:3-4

『そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4新共同訳)』

天国の情景として引用する聖句です。

本当の天国は、新天新地という永遠の幸福の世界です。

これが、究極のインマヌエルです。その真意は、「創造主である神が人と共に居る」ということです。

肉体的生命に付き物の「死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と記されています。

この聖句は、肉体的生命を卒業した方の葬儀で読み上げますね。遺された近親者は、寂しいですが、ご本人は肉体的生命の痛み苦しみから解放されたコトは事実なのです。

かつて、イスラエルの民は、出エジプトをして、シナイ山で律法を与えられ、幕屋建設に取り組みました。

大切な要素は、イスラエルの民が自発的に献品した原料で、創造主である神の知恵を受けた人たちが建設して、礼拝の場所が完成したのです。

しかし、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、」と記されているように、その本体(原形)は天にある。

創造主である神の啓示を受けて地上に建設された幕屋は、レプリカ(複製)なのですね。

人間が、この地上の肉体的生命を卒業するときに、2つのタイプがあるようです。

これは、本人と創造主である神の間でしかわかりません。人間は、お互い外見しか見られないので、その人が、何を信じているのかを断定することはできないのですね。

創造主である神を信仰している人は、肉体的生命から解放されるときに、人間にはどうすることもできない「罪」を贖い主・メシアであるイエス・キリストが引き受けて下さるのです。

それは、贖い主イエス・キリストの十字架の贖いのときの遺言であり、信仰者の信仰告白によって永遠の生命保険の契約が成立しているからです。

一方、創造主である神との間に、永遠なる生命保険の契約がない人は、自分の「罪」引受先がない状態で、自分で永遠に背負わなければならないコトになります。

これが、永遠の差になるのですね。

肉体的生命に生かされている間に、創造主である神が備えて下さっている永遠なる生命保険の契約を自らの信仰によって成立させておくことをオススメいたします。

何も難しいコトはありません。福音の三要素を受け入れれば良いのです。

それが、ホンモノの天の幕屋に近づく唯一の方法なのですね。

動画 身の丈を考える教訓


www.youtube.com

ビヨーーーーン ビヨーーーーン

ネコちゃんが、過呼吸を起こさないか心配なほどの運動をしています。

どうやら、身の丈以上のダンボールの沼にハマってしまったようです。

ネコちゃんは、狭いキツキツの場所が大好きなようですし、ダンボール箱も大好きみたいです。

でも、この箱に入ってしまって大丈夫だったのでしょうか?

撮影者が、脱出の協力をしてあげたとは思いますが、このままでは、パニックになってしまいそうな気配が漂っていますね。

人間も、たまには自分の身の程を忘れた冒険に夢中になります。

「沼」とも表現されたりしますが、なぜか? そこにいるのが、心地よい快感を感じてしまったりすると抜けられなくなったりします。

ついつい激しい依存症状に気を奪われがちですが、身の回りのスイーツなど、ソフトな依存対象が、思いの外「沼」だったりします。

「最近ハマっているのは…」などと表現します。

これぞ、まさに「沼」なのでしょうね。

やがて、何事もなかったかのように、忘れられたら良いのですが、ドップリ、それがないと何も手に付かないようであれば、かなりヤバいです。

身の程を超えた冒険は、自分の中になかった新しい価値観を発見できるチャンスでもありますが、決して抜けられない「沼」に足を踏み入れることになるかも知れないことも、頭の片隅に置いておく必要がありそうですね。

誰でも考えている シモーヌ・ド・ボーヴォワール

『人間は誰でも考えている。インテリだけが自慢しているのだ。 シモーヌ・ド・ボーヴォワール

インテリ又は、その原語であるインテリゲンチャ(露: интеллигенция、インテリゲンツィヤ、英: Intelligentsia, Intelligentzia)とは、知識階級を指す概念であり、そのような立場にある人を知識人ともいう。…単にインテリと略されている場合は、単に高学歴であるというだけで人生経験が浅く自律性に欠けるといった意味に使われるケースもある。

インテリ - Wikipedia

 

人間は、それぞれの立場で、何かを考えているハズです。合理的かどうか? は別として…。

それぞれの考え方や価値観が異なるので、「お前は何も考えていない(怒)」などという論争が絶えないのです。

自分の考えたことを内に秘めている人が多数派もようで、大いにアピールしたい「インテリ」も少数いるようですね。

フランスの哲学者、作家、批評家、フェミニスト理論家・活動家で、…在学中に出会ったジャン=ポール・サルトルとは、実存主義の立場から自由意思に基づく個人の選択を最重要視し、婚姻も子どもを持つことも拒否。互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた。

ja.wikipedia.org

このフレーズを記したシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、それまでの社会的価値観とはちがう生き方をイメージし貫きました。

かの有名なサルトルがパートナーだったのは知りませんでした。

フランス人は討論好きな人が多いようで、そのような周囲を見回して、このフレーズを紡いだのかも知れませんね。

より円滑な人間関係を築くという視点で考えると、それぞれが自分で考えることは非常に大事です。

その次に、それをお互いに尊重することも必要ですね。

さらには、その意見を集約して、共感性を大切にするということや健全な利益のために、どのように調整するかという視点もあります。

それぞれの意見を大切にしながら、健全な利益最大化のために、調整役が必要不可欠なのですね。

もう一つは、問題提起の視点です。

何に焦点を合わせるかということです。

それについて、それぞれの視点で感じるコトや改善点などを考えて、論じていくことが肝要なのですね。