永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ペットのためにこんなコンサートをする飼い主

癒やし癒やされる関係

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動画を見ているとなんだか心が温まります。

飼い主の包容力みたいなモノが感じられます。

ペットのみならず、家族も周囲の人たちも幸せを実感できているようにまで感じてしまいます。

このような心のこもったイベントも大切なのですね。

私たちは神の家

「…我等もし確信と希望の誇りとを終わりまで堅く保たば、神の家なり。(ヘブル3:6)」

神の家とは、創造主である神と、被造物である人間が共に居れる場所ですね。

インマヌエルの主は、常に共にいてくださるお方なのです。

エデンの園でも、エジプトの奴隷生活の中にも、出エジプトの時代にも、日の中水の中共にいてくださったのです。

幕屋の時代、「…昼は幕屋の上にエホバの雲あり、夜はその中に火あり(出エジプト40:38)」と記されています。

イエスキリストの十字架の死と復活が成就された新契約時代には、至聖所の隔ての幕は廃止されました。

今、一人一人の信者が、神の家として、聖霊の神の内住を受けて成立しているのです。

「『今日なんじら神の声を聞かば、その怒りを惹きしごとく、心を頑固(かたくな)にするなかれ。』(ヘブル3:15)」

と、奨められているように、イエスキリストの十字架の贖いを自分のためだと信じ受け入れるだけで、神の家に変えられるのです。

創造主=エホバ=父なる神=子なる神=聖霊なる神(三位一体とは、父・子・聖霊が唯一の存在であるということを表しています。)

育つことと、育てること

「1年先を思う人は花を育てなさい。10年先を思う人は木を育てなさい。百年先を思う人は人を育てなさい」 ─孔子

人が,つないできた歴史があります。

生き物は、それぞれに寿命がありますが、それぞれのサイクルで、いのちをつないでいます。

写真を撮る人は、「この風景にはこの花が似合うと思えば、種をまき、その花が咲く頃に撮影に訪れる」と聞いたことがあります。

林業を営んでいる人は、もっと長い時間感覚が必要なのでしょうね。

人を育てるのは、それよりも大切なのですね。

人は、生まれた時には、すべての世話を親的な立場の人にしてもらわなければ生きていけません。そして、成人してもある程度の人の助けを必要とします。

そういう意味では、不思議な生命体なのかも知れません。

育ててもらった感謝と自分自身を育んでいく意欲を大切にすることが必要なのですね。

ステキな自分ファーストから、協調性への成長が目指せれば幸せですね。

発電機を搭載した電気自動車 NISSANノートepower

リーフという100%電気自動車を開発したNISSANが、新しいカテゴリーとも言える車を開発発売して大人気を博しているようです。

それが、「NISSANノートepower」です。

電気自動車のよい点は、排気ガス 0 、音も静かなどが上げられるが、航続距離が短いという弱点がありました。

今回この弱点にアプローチするために、ガソリンがある限り発電し続けられるように発電専用エンジンを搭載して、バッテリーをコンパクトにすることにも成功しているといいます。

バッテリーの容量に依存する100%電気自動車では、バッテリー容量以上に航続距離を伸ばせないというカベを突破することができたのです。

燃費も気になるところですが、加速もなかなかなようで、今からが楽しみな一台で、今後の成り行きを見守りたいです。

読書するネコ

短い動画です。勉強家ですね。

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推理をしてみると、ネコから見て左側のページに鳥の写真らしきモノがありますね。

文字の方から見ているようにはみえるのですが、チラ見をした鳥の写真らしきモノが本命のように感じます。

まあ、「ゲスの勘ぐり」とネコちゃんに言われてしまいそうですので、ネコちゃんも読書する時代になったと理解しておきます。

タイミング

今、コーヒーが飲みたいと思った時に、目の前に適温のコーヒーが差し出されれば、幸せ感が数倍に感じるでしょうね。

コーヒーを頼んでも、延々と待たされたとしたら、イライラしてしまって、幸せ感を味わうどころではなくなってしまうかも知れません。

レストランなどのウエイターは、目の前のカスタマーに目を配り、気配を察して、タイミングをはかり、適当な(just time)サービスをすることで評価が上がることでしょう。

共にいます主イエス(インマヌエル)も、そのように私たちの側でスタンバイされていると思うと幸せ感が広がるのではないでしょうか。

間 ま

「間(ま)」が思うようにとれなくなったことを苦にして自死を選んだ噺家がいましたね。

色々な工夫をしてみたけれど、詰まるところ、袋小路に入り込んでしまって絶望しかみえなくなってしまったのでしょうか。

その絶望に包まれて、そのような選択しかないように、思い込んでしまったと想像するしかないわけです。

自分の発することばの間、人との間、モノコトとの間、それぞれ適当なモノであれば、快適に過ごせるのかもしれないですね。

あまり、気にしすぎないのも、気にしすぎるのも弊害があるようですね。