永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

あるものを磨きたい

人間は、十人十色で、得意な事もあれば不得意な事もあります。

傾向として、自分ができない不得意な事に目を向けて、落ち込みがちです。

でも、何か得意なことはあると思います。

その自己発見に成功すると、次の楽しみが味わえます。

自分が得意な事を磨くのです。

自分に無いもののチャレンジは、余力でやればいい事で、これにエネルギーを注ぎきってしまうと、自分磨きができなくなり、ダメな自分叩きになってしまう懸念があるからです。

自分にあるモノを磨きたいですね。

自分に無いものは磨けませんからね。

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さびていたとしても、こんな感じになるかも。

耳の不自由な赤ちゃんが母の声をはじめて聞いた瞬間

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耳が聞こえるのは当たり前ではない有難いことなのだと感じさせられます。

補聴器をつけられた瞬間から、人生ではじめて、お母さんの声を聞いたのです。

母の愛情と声を確認できた「ほほえみ」は見ている私も幸せを感じました。

エリヤ君は、愛情に囲まれて、このときの感動をベースに力強く歩んでいくのでしょうね。

草マルチという発想…すごい

野菜を育てている方々は、黒マルチなどよくご存じだと思います。

最近は、いかに自然のモノを活かして、農薬を使用せずに安心して食べられる野菜を作る方が少しずつ増えているようですね。

そのような取り組みをされている方が、「草マルチ」というものを実践しているそうです。

興味がある方が、検索してみてください。

刈り取った草で、育てている野菜の土の上を覆うのだそうです。

このようにする事によって様々なメリットがあるそうです。

人間には、知らないコトがたくさんあるのでしょうね。

物知りと言われる人でさえ、知らないコトの方が多いでしょうね。

そうでした。必要な時に引き出せる方が大切ですね。

ひらめいた事があったら、トライして良い体験をして、工夫をして経験を積んでいくと、楽しみながら色々な発見を味わう事ができるのですね。

羊は自由に遊んでいるらしい

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山羊が高い所が好きだという光景は目撃した事はあるのですが、羊のこんな姿ははじめてでした。

人がそばにいると、おとなしく草を食べているイメージですが、かなりアクロバチックなことをしていますね。

羊飼いは、迷子の羊一匹を探しにでも出かけているのでしょうか?

「汝等いかに思うか、百匹の羊をもてる人あらんに、もしその一匹まよわば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷えるものを尋ねぬか。もし之を見出さば、まことになんじに告ぐ、迷わぬ九十九匹に勝りてこの一匹を喜ばん。かくのごとくこの小さき者の一人の亡ぶるは、天にいます汝らの父の御意にあらず。(マタイ18:12-14)」

羊が羊を産んでこそ、羊はふえるのですね。

羊飼いだけがどれだけ頑張っても、羊はふえない。

羊と羊飼いの信頼関係がなければ、羊は安心して羊をふやせないのでしょうね。

今の人間を含めた生物界の課題なのかも知れません。

クマの決定的瞬間

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木彫りのクマが、シャケを口にしている姿を見た事があります。

この動画では、そんな決定的瞬間が記録されています。

大きな体をしていますが、俊敏な動きをするのですね。

実に無駄のないポジション取りでした。

これも、創造主から授かったモノなのでしょうね。

創造主を神と認められないのが「罪」

「…キリストの十字架に敵して歩む者おおければなり。彼らの終わりは滅びなり。己が腹を神となし、己が恥を光栄となし、ただ地の事のみを念う。(ピリピ3:18-19)」

サタンは、天使長(ルシファー)でありながら、仕える神よりも上を狙って、堕とされました。

あらゆる管理権を剥奪されたのです。

そして、創造主は、人を造り、地球上の管理権を人にあたえました。

それが、どのくらい続いたのかわかりませんが、創世記の3章の記述で、サタンの誘惑を受け、神から与えられた唯一の禁則「食べてはいけない木の実」を食べてしまったのです。

つまり、サタンと同じようなコトをしたわけですね。

これが、「罪」であって、「神を認めず自分を神とする事」なのですね。

この世での法律を犯す行為も「罪」で、相当の刑罰を受けなければならないのですが、神の対する「罪」は信仰によってしかクリアできないのですね。

この事があってから、人間が与えられていた、地上の管理権が剥奪され、サタンにしばし預けられる事になったのです。

そして、それまでの間、サタンが活躍し続けていると言う訳ですね。

そのために、御子イエス・キリストの十字架と復活が必要だったのです。

それを自分のためだったと信仰告白すれば、失われた罪の淵を超える橋が架かり、永遠の生命に歩む事ができるようになるのです。

2つの生命に生きる信仰者

ここでいう信仰者とは、『100%神である御子が肉体に宿り、100%人となって、すべての人の身代わりとしてすべての罪を背負い十字架に架かり死に、葬られ、三日目に復活し、昇天したイエス・キリストを唯一のそして、自分のメシア(救世主)である』と信じた人のことを指しています。

人間は、「肉体的生命」をあたえられて生かされていますが、信仰の告白をすると「新生」して、三位一体の位格である「聖霊」の内住を受けて、「霊的生命」すなわち「永遠の生命」の歩みがはじまるのです。

「肉体的生命」は、いつか寿命という形で終わりが来ますが、「霊的生命」は「永遠」に続くのです。

創造主である神は、三位一体として三つの位格を持ち、父、子、聖霊が唯一の存在なのです。今は、父、子の位格は天に、聖霊がこの地上で、「助け主」の役割を担っているわけです。

「…我らが外なる人は壊るれども、内なる人は日々に新なり。(コリント後4:16)」