永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

恨まず、嘆かず、慎む 小林一茶

『他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎しむは貪欲、恐るべきは 奢り。小林一茶

江戸時代を代表する俳人として活躍したと伝わるのが、小林一茶です。

継母との折り合いが悪く、江戸へ奉公に出されたことで、その後の人生が変わったようです。

信濃の北国街道の宿場町で生まれた、農村育ちと、類い希な俳句のセンスが、開花する道筋になったのでしょうね。

居心地が悪いと感じるのは、「子どもの我が儘だ」とガマンを強いられることもありますが、江戸時代にも、折り合いが悪い関係に対処する方法があったのですね。

そのような体験をした小林一茶が記したフレーズです。

それは、「他の富めるをうらやまず、身の貧しきを 嘆かず」から、はじまります。

当たり前の事のようにも感じますが、このギャップほど、嫉妬心を掻き立てる要素は無いのかも知れません。

他の富を羨んでも、自分にやって来るわけでもないのにです。

そして、ジッと自分の手を見つめながら、身の貧しきを嘆いては、ため息をつくのです。

でも、小林一茶は、これを記した時点では、そう考えていなかったようです。

むしろ、貪欲を慎むことや奢りを恐れることに意識を向けていました。

人間は、「有難い」という気持ちが薄れてくると、「当たり前」と言う意識が優位になってきます。

それまでは、満足していたつもりでも、「もっともっと」と貪欲になっていくこともあります。

さらに、自分には、「当然○○があるべき」という、奢りの領域に、意識が傾く懸念もあるでしょうね。

自分の立ち位置を知り、身の丈を知ることは大切だと考えています。

また、「有難い」という気持ちも大切にしたいですね。


小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日) - 文政10年11月19日(1828年1月5日))は、日本の俳人。本名は小林弥太郎[† 1]、一茶とは俳号である。別号は圯橋[2]、菊明[2]、新羅坊[3]、亜堂[3]。庵号は二六庵[4]、俳諧寺[5]。

信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった[6]。
概要
小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に北信濃の北国街道の宿場町、柏原に生まれた(実母は仁倉の里方で出産した)。小林家は柏原では有力な農民の家系であり、一茶の家族も柏原では中位クラスの自作農であった。幼い頃に母を失った一茶は、父が再婚した継母との関係が悪く、不幸な少年時代を過ごす。一茶を可愛がっていた祖母の死後、継母との仲は極度に悪化し、父は一茶と継母を引き離すことを目的として15歳の一茶を江戸に奉公に出す。この継母との確執は一茶の性格、そして句作に大きな影響を与えた。

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