祝福の方法が大切なのですね。
「ほめ殺し」というアプローチが話題になった時代もありましたね。
言葉では褒めているのだけれど、実際は批判しているというのですから、ほめるとは裏腹の行動なのですね。
隣のお宅に向かって、早朝に祝福していたら、その行動は、相当に奇異に見えることでしょうね。場合によっては、通報されてしまいかねません。
相手が、受け取りやすいように祝福を伝えるのが大切ですね。
「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。(箴 26:11新共同訳)」
犬には犬の事情があり、吐いたものに戻ってくるのでしょうね。
また、動物の母親が先に食べて、排せつしたものを赤ちゃんに食べさせるということもあるそうですね。
でも、それは、それぞれの生物の生態ですから、それが悪いわけではありませんね。
ここで指摘されているのは、そういうことを必要としない人間が悪習慣から抜け出せない状況を描写しています。
人間は、秩序か無秩序かを問わず習慣化するのですね。
ある日、「もうこんなことはやめにしよう」と決意しても、また、同じような習慣を繰り返してしまうのですね。
そのために大切なのは、「こんなことを繰り返している自分はだめだ。」と自分を責めるのではなく「こんなことを繰り返してしまうのが自分なのだ。でも、こんな自分でも創造主は大丈夫だと認めていてくださるのだ。」と自己受容することなのですね。
自分では、どうすることもできない悪習慣(罪)から解放するために、イエス・キリストが、身代わりに十字架にかかってくださったのですからね。
2018冬季オリンピックで、銅メダルに輝いたカーリングチーム「LS北見」。
彼女たちにつけられたピンマイクから話していることすべてが放送され、その中の作戦を確認する同意の言葉「そだねー」が話題になっている。
「そだねー」は、肯定的な言葉なので、その声を聴いている人にとっては、「うんうん」とうなずいて自己肯定されているように感じられるのかもしれない。
また、共感性も伴うようなニュアンスも感じられるので、ダブルでほんわか受け止められているように考えている。
同じ日本語でも、地域によっては、日常会話がまるで言い争いをしているように聞こえてしまうこともある。
北海道地方は、まろやかな雰囲気が漂っている。
「○○でないかい?」「○○っしょ」「そだねー」などのやり取りが、チームの一体感を感じさせ、応援している一人ひとりにも、一体感を生み出していたのではないかと感じましたね。
「ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。(箴言16:24口語訳)」
農福連携の先駆的取り組みをしている北海道浦河町にある「べてるの家」で生活する人の中には「私、この病気治りたくないの」という人があるそうです。
その理由は、「ここは、とっても住みやすいし医師も来てくれる」というのです。
医師というのは、元浦河赤十字病院(現浦河ひがし町診療所院長)の川村敏明 医師のことです。
川村医師は、「こちらが頑張れば頑張るほど治せないダメな歴史を作ってきた」と嘆く。つまり、精神医療に薬を使えば使うほど回復から遠のいていった日々を回顧してのこと。
元ソーシャルワーカー(現北海道医療大学教授)の向谷地生良さんとタッグを組んで「べてるの家」を育ててきたのです。
「働く」「役割」「安心してサボれる」「弱さを絆に」
みんな驚くほど楽しそうで元気「奇跡の病気」
などと、それぞれのペースでのびのびと生きている。
治ることがどういうことなのかは、様々な価値観があることです。
しかし、生き生きと生きることも、治るという一つなのかも知れませんね。
「…十二年間血漏を患いたる女、イエスの後ろにきたりて、御衣のふさにさわる。それは、御衣のふさに触れば救われんと心の中にいえるなり。イエスふりかえり、女を見て言いたまふ『娘よ、心安かれ、汝の信仰なんじを救えり』女この時より救われたり。(マタイ10:20-22)」
アブにゃイタズラですね。
恐怖よりも好奇心が勝っているのですね。
飼い主は、ネコちゃんの飼い主なので何度も付き合っているのでしょうかね。
犬は、コンセントには見向きもしないかも知れませんが、同じことをしたら蹴飛ばされるかも知れませんね。
このネコちゃんは、一度でも、「ビリッ」と感じる経験をしたら、近づかなくなるでしょうね。
こんな時は、どうすればいいのでしょうね。