永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

どこにコストをかけるのがスマートなのでしょう?

和食のメニューは、松竹梅と三種類に分けられた時代がありました。

最近は、かなり少なくなってきたように感じます。

誰が決めたのが、「松」が高級なイメージが強かったですね。

「梅」が一番高級な位置づけしたメニューも見たことがありますが、少数派でしたね。

モノの値段も時代によって大きく変化してきました。

パソコンなどは、数百万していたモノよりも遙かに優れた性能のモノが、数万円で売られている今の時代は衝撃的ですね。

ですから、何かパソコンのトラブルがあり、修理や修復を依頼すると、見積もられてきた金額が、もう一台買えてしまうような金額を提示されることもあるようです。

機械モノは保証はあっても、絶対壊れないモノではありませんよね。

考え方なのですが、性能がよいモノや壊れにくいだろうモノを少し値段を出して選ぶという方法もありますね。

また、画像よりや動画を多用する人などは、処理能力の高い、i5やi7などを少し値段を覚悟して採用してみるのもよい選択肢になるかも知れませんね。

ガミガミ言えなくなったお母さん

ある母親は「中学生の息子の同級生が自死した」と聞いて大変ショックを受けたそうです。

自死した子は、素直で明るくクラス委員をするような子だったそうです。

また、遺書には、感謝の言葉しかなかったというので、自死した理由もわからず親族もやるせない気持ちを抱えているようです。

その子の母は、ガミガミタイプだったそうです。

それを聞いた時から、「息子が元気で生きていてくれるだけでいい」と考えるようにしたと話してくださいました。

萎縮した親心を内包しながら、存在を承認するという親の欲目が削ぎ落とされたようなマインド転換にホッとする気持ちもありました。

生きていくことはサバイバルであり、命がけなのだという部分と、生き続けられることはものすごく有難いコトなのだと感じさせられる内容のお話でした。

自発的にさせていただきたい心境

成長過程で自発的にしたいことと、強制的にさせられることとありますよね。

強制的な感覚を伴う受動的な要素と自発感覚による能動的な要素ですね。

それが、勉強でも、どうしてそれを勉強する必要があるのかが認識できれば、強制されなくても自発的に取り組みますよね。

強制的な感覚しか持てずに、やり過ごしてしまった事柄は、数十年後に、その必要性を認識して後悔するコトになるわけですね。

子や家庭のためにしなければならないことも、認識によっては「家族のためにはこのようにしてあげたい」と考えることもできますよね。

「絶対こう」と形を決めてしまうと後で困ることもあるので「より良くなるためのこんな感じ」みたいな感覚も大切かも知れませんね。

相手のことをイメージして、そのようにしたら喜んでくれるのかを考えている時が至福の時間ということでしょうね。

喜んでくれると思い込んでいたのに、結果が送り手の期待外れでも、めげないしょげないコトが大切ですね。

そして、相手がドン引きしたらスタンスを変える配慮も必要になってくるのでしょうね。

送り手の満足も必要ですが、受け手の許容範囲内でというのがキモのようですね。

やめられないとまらないかっぱえびせん

おいしいとはまってしまうやばい感覚ありますよね。

クセになる食品成分は、どうやら、脂肪分と甘みや塩気の調味料らしいですね。

化学調味料の過剰摂取も脳に影響があるとの研究もなされているようです。

まだ、お菓子などで収まっている内はマシかもしれません。

USAのスーパーマーケットで売られている大きなコカコーラと大きなポテトチップスと体格のよすぎる人などの映像が印象的ですね。日常的に糖分などの過剰摂取が続くと体型のみならず、体調にも影響が及ぶますからね。

依存症は引き寄せられてしまうモノですから、自分にとって大切な方向に引っ付いていくコトが大切ですよね。

本来の意味での自己満足、言い換えれば自己充足で、魔力から遠ざかることができるようになるのですね。

それは、何かを外に求めるよりも、自分の中にある幸せを実感することからはじまるのでしょうね。

「他人を許しなさい。それは彼らが許すに値するからではなく、あなたが平和に値するからである」 ─ジョナサン・ロックウッド

「許し許されること」これらの実感が持てる人は、幸せなのかも知れませんね。

一般的には、許しを請う相手には、コンタクトがとれない人が多いからです。

また、口先だけで、許すといわれても、実際には許されている実感が持てないことも多いのではないでしょうか?

冒頭の言葉は、「許せない」という気持ちを持ち続けると、「平和」に背を向けそれから遠ざかっているのではないかという問いかけのように感じます。

憎しみから解放されるために、自らの呪縛を解くという意味で、その気持ちを手放し、解放されることを意味しているのでしょうね。

事実と感情の分離をすれば、ネガティブな記憶も笑える日が来るでしょう。

「これでいい」が崩れればガタガタに

今の自分のベース(土台)があると思っているとゆとりさえ感じられますね。

しかし、その前提条件が、病気や失業などで崩れると、目の前が真っ暗になるような絶望感に見舞われてしまいますよね。

弟子のペテロは、ガリラヤ湖の水面を歩いて来られるイエスを見た時に、私も同じように歩きたいと申し出ました。
そして、歩くことになり、一歩を踏み出した時に、湖面を歩き進むことができたのです。しかし、風を見て怖れを感じた瞬間に溺れそうになって、イエスに助けを求めたのでした。(マタイ伝14:27-33)

この「風」を見るというのは、詩的で不思議な表現なのですが、物事を的確に表現しているように感じます。

大丈夫だと思っていたけれど、大丈夫じゃ無いかも知れないと思った瞬間から大丈夫じゃ無くなるのですね。

どんなときも大丈夫だと言える根拠をいつも確認していたいですね。

 

主イエスキリストは復活された。

主イエスキリストは実に復活された。

ハレルヤ!

アーメン!

ネコが「I love you!」って言っているよ

www.youtube.com

飼い主は嬉しいでしょうね。

これを見た人の中には、聴き方次第という、冷静な意見もありました。

でも、愛する飼い主には「I love you」と聞こえるのですから、それが真実なのでしょうね。

微笑んでいるネコなんて画像も出回っていますが、実際に笑っている訳では無いでしょうね。

何かの誤解でも良いので、飼い主にとってポジティブに感じられる要素を受け取ることも処世術の一つかも知れませんね。