永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

年齢を感じる時

「年甲斐もなく」なんて、言われちゃうこともありますね。

自分で、実年齢に照らして、疑問を感じたり、決断を躊躇する時など、口にしたりしますね。

一方、実年齢の割に、活発に行動する人に対する、羨望で口にしたりしますよね。

結構、ユニークなのが、車に同乗している高齢者が、車外で歩いている人を見て、「年寄りは危ない」なんて、当人と同年齢が自分より若いくらいの人に対して発したりしていますね。

それを聴いている家族は、「同じくらいの年の人でしょ」とか、突っ込みを入れるのですね。

「自分のことは棚に上げて」「年甲斐もなく」なんていわれますが、当人は、年齢をいつも意識して生きていない現実があるのでしょうね。

年齢を意識する時は、新年を迎える時や誕生日、書類に生年月日を記入する時などくらいでしょうか。

まあ、いつも気にしていたら、それはそれで、疲れるかも知れませんね。

沈黙 映画でも話題ですが・・・。

願い事をする祈りが習慣になっている時に、その願いが実現しなかったなら、祈っている当人にとって「神が沈黙している」と感じてしまうかも知れませんね。

神の声は、細い声といわれていて、静止の時にようやく聞こえるのでしょう。

祈りは、神の御前に静まる時ととらえると、神の細い声を聴く体制は出来ていると言うことになりますね。

それでも、神の声は聞こえないということも多いのですね。

その状態のことを、人の立場からは「神の沈黙」と考えてしまいます。

神の立場からは、「黙して、あなたの想いを共有し寄り添っていた」ということかもしれませんね。

世の終わりまで共にいてくださる神(インマヌエル)

その約束が忠実に果たされるのであれば、常に共にいて想いを共有してくださっていると考えると、マインドが180度変わるのではないでしょうか?

消えて欲しいと思う心理

「抹殺したい!あの人がいなければ自分は幸せになれる」

なんて気持ちを経験された人も少なからずいることでしょう。

鬱陶しく絡んでくるような相手に対しては、そんな気持ちになることもあるでしょうね。

一方、あまりに良く出来る人で、自分のポジションを奪われかねないと思い込んでしまった時も、そのように思ってしまうかも知れません。

イエス・キリストが肉体で活動されていた一世紀もそのような状態だったようです。

その当時は、印刷技術も無く、口伝律法を主体に指導体制が成り立っていたようです。「ラビ」と呼ばれる先生が、弟子に伝えていくのだそうです。

ですから、律法学者たちは、自分たちがトップだと思い込んでいたのです。

そこに、イエス・キリストが肉体にて現れ、「メシア(救世主)」であると様々な活動で示したモノですから、大騒ぎになりますよね。

もし、イエス・キリストがメシアであるならば、自分たちの地位は奪われるのではないかと考えるのも無理はありませんね。

そこで、イエス・キリストを抹殺しようと、民衆を扇動し、自分たちの手ではなく異邦人であるローマ兵たちにイエス・キリストを殺させようとしたのです。

そして、死刑が決まった時、彼らは喜んだのでしょうが、それもつかの間でした。十字架に架かられて死に、葬られ、三日目に復活されるとイエス・キリストはメシアであることが確定するために、十字架に着けておいて、「もし、神の子であるなら十字架から降りろ」なんて、正反対なアプローチをしたのです。

未だに、ラビの中には「私だったら、イエス・キリストをローマに送りライオンのえさにした」なんて、口にする人もいるようです。

ただ、現実は律法学者の思い通りにならず、創造主の人類救済のためのイエス・キリストによる十字架による贖いと復活が成就されたのでした。

イエス・キリストは十字架ではなく、杭に欠けられたなんて吹聴している教団もあるのですが、それを無かったことにしたい意図が繁栄されているのでしょうね。

ロシア人の団結力 ハラショー

こんな動画が公開されていました。

寒い凍り付いている路面では、よくあることなのかも知れませんが、こういうときには、機械よりも、人海戦術が良いのかも知れませんね。チェーンを巻いているようですが、凍結路面は、「おそロシア」ですね。

 

youtu.be

 

でも、この人たちは、どこから何にのってやってきたのでしょうか? そこまでは、わかりませんでした。

嫌われる勇気

逆説的な表現で、刺激的なタイトルですね。

岸見先生が出版されたアドラー心理学本がよく売れているみたいですね。

ドラマでも、アドラー心理学を解説しようとする試みがありますね。

ただ、「明確にその推理を否定します」なんてセリフは、ムカッとくる心理を逆手にとっているのでしょうか?

「私は、そのようには思いません」で、十分ですよね。

まあ、テレビドラマですからね。

人間は、自分が好意を持っている対象から、好意を得たいのが当たり前の心理すよね。

でも、極論ですが、個の存在が確立していれば、自分の意思に沿って、生きていれば、あえて他人の好意を得なくてもOKなはずですね。

自分の本音と、嫌われたくない気持ちのギャップに多くの人が苦しんでいる日本社会の中に一石を投じたのが、この「嫌われる勇気」という本だったのでしょうね。

頭が痛い時

頭痛持ちの人は、気がつけば頭痛で、まるで自分の頭の上に重しをのせられているような感覚だと聞いたことがあります。

この表現は、それぞれで異なるかと思いますが、頭痛から逃れられない状況はつらいモノですね。

現象としての頭痛と、急な入り用で、工面をしようとしているけれど、メドが立たなくて、「頭が痛い」と言うこともありますよね。

また、「心が痛い」なんてこともあったりします。

これは、自分の中に何かを抱え込んでいて、それが限界に近づきつつあるときに感じるモノかも知れません。

頭痛も心の痛みも、周囲の人には、伝わってしまうモノですから、何かスッキリできる方法が発見できたら良いのですけどね。

その方法が発見できなければ、体の一部としてとことん付き合っていく覚悟が必要になりますね。

弱さは強さかも

本質的な強さとは何でしょうね?

赤ちゃんは、生命力と存在感の大きさにはスゴい強さを感じますが、誰かにケアをしてもらわないと生きていけない弱さの象徴のようにも感じます。

最近は、多くの動画が公開されていて、人間の赤ちゃんと犬とか猫とかのペットとの様子を撮影したモノがよく見られるようですね。

そんな動画(URL発見できませんでした(m_m))の中に、大型犬に抱きついていく人間の赤ちゃんが映されていました。

大型犬は、赤ちゃんを抱え込むように、受け止めながら、大きな前足の先を丸め、赤ちゃんに爪などが当たらないように最大限の注意を払っているようでした。

大型犬が、床に寝そべり、クッションのように、大きなお腹をさしだしていつでも、赤ちゃんを受け止められるように体制を整えていました。

ここまで、気を遣うのかと感心しました。

その大型犬の振る舞いは、優しさに溢れ、赤ちゃんの弱さを包み込むようなフトコロの深さを感じました。