『勇気と慰めが彼に与えられたのであれば、その勇気と慰めを彼は伝えていかなければなりません。そして、それは別の形で報われるのです。他者を確信させることが自分の確信をも強めることになるということを体験したことのない人がいるでしょうか。他者を慰めることによって自分が慰められるということを自分自身で経験したことのない人がいるでしょうか。ですから、「教えることによって学ぶ (docendo discimus)」をもじって次のように言うこともできるでしょう。慰めることによって慰められる (consoliondo consolamur)"
苦悩とは、このように、何よりもまず業績であることができます。しかし、業績、つまり正しく殺然とした苦悩は、成就であるだけではなく、成長でもあるのです。苦悩をみずからに引き受けること、苦悩をみずからに受け入れることによって、私は成長します。つまり、一種の新陳代謝が起こって、活力が増大するのです。というのは、新陳代謝の本質は、物質、原料が活力に転換されることだからです。これは人間的次元においても実際そうなのであって、運命の中に与えられている原料を変換する時にも同じことが起こるのです。苦悩する人は、もはや運命を外面的に変えることはできなくなっています。けれども、その人はまさに苦悩によって、運命を内面的に克服することができるのです。つまり、その人は、運命を事実の次元から実存の次元へと移し換えることによって運命を克服するのです。事実と言いますのは、先の患者の場合には、「私はリトル病にかかっている。この病気は私に与えられている」ということです。しかし、これで終わりということではありませんでした。この事実は実存的に主体化されて、次のように変わったのです。「私はリトル病にかかっている。そして、この病気は私に課せられている。私は、この病気から何を生み出すのか、この病気から何を始めるのか、という問いの前に立たされている」。
言うまでもないことですが、事実をより高い次元に移し換えることによって、私は私自身を。私自身の実存をより高次の段階に置きます。まさにこれが、成長するということなのです。(以下略)p128~129 』
「他者を慰めることによって自分が慰められる」
「慰めて欲しい」と自己憐憫に浸ったことは、誰にでも経験があると思います。でも、そんなタイミングで、都合良く慰めてくれるのは、幼少期における優しい保護者くらいなものなのかも知れません。
これは、一種の化学反応のようなイメージを持っています。
それは、「共感性」です。慰めて欲しい人は、慰めが必要なセンサーを有していると考えられます。これに従えば、ニーズがあるところがわかり、その相手に受け入れられれば、「慰める」事が出来ます。
これは、自分一人では、自慰行為になりますが、相手との良いコミュニケーションが伴えば、その慰めを共有し、共感性も生まれるのです。それが、一人では到達できない化学反応の領域ではないでしょうか?
これは、あくまでも心理的、精神的な話しです。
「教えることによって学ぶ」
他人に何かを伝えようとしたら、伝えようとする内容について詳しく調べるのが一般的です、学校の先生は、授業の準備のために、時には、授業時間よりも多くの時間をかけると聞きます。その時間こそ、教師にとっての学びの時間です。授業をすると、自分の準備や話し方について、さらには、生徒の反応などのフィードバックを加えて、学びが深まるのですね。
「正しく殺然とした苦悩は、成就であるだけではなく、成長でもある」
人生には、必ず、苦悩が伴います。それには、避けられるものもあり、避けられないものもあります。この避けられない苦悩をどうするかについての考察です。
フランクルは、「苦悩をみずからに受け入れることによって、私は成長」と記しています。「苦悩によって、運命を内面的に克服することができる」とも続き、自分の内面で起きる葛藤を熟成に導き、自分の課題に向き合わせて克服へと導くというのです。
つまり、苦悩は「私自身の実存をより高次の段階に置きます。まさにこれが、成長するということ」であると記しているのです。
苦悩とは、その時の自分自身のキャパシティを越えた課題です。
それをどのようにとらえて取り組んで行くかによって、自分の次のステップが成長というカタチで、見えてくるのですね。
参考文献
Viktor Emil Frankl Homo patiens : Versuch einer Pathodizee
『苦悩する人間 V·E· フランクル著 山田邦男・松田美佳[ 訳 ] 春 秋 社』