永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

わかりやすい聖書ガイドヨハネの黙示録発売中。肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

トピックス(2)

 聖書はわからないことが多い書物です。これは、否定できません。どのように解釈するのかにも細心の注意が必要です。史実とのギャップがある理由は私にはわかりませんが、いずれの時にわかることでしょう。その中で、最重要なテーマは、人類の救済です。創造主である神【主】は、めぐみ先行です。ですから、ペンテコステ以降の信仰者は、『今はめぐみの時』と言われ、それに『信仰で応答』しているのです。信仰生活には試練や困難が伴うケースもありますが、他の時代に比較すると、かなり恵まれていると感じます。決算の時に向けて、そのチャンスを生かす必要があるのです。創造主である神【主】が定めたその時に必ず来ると信じています。ですから、信仰者は、【主】との和解を選択するのです。
 その内容は、非常にシンプルです。その中心は福音の三要素です。つまり、人間が解決できない「罪」を唯一の義人であるイエス・キリストが背負い、十字架刑で死に、葬られ、三日目に復活されたことを自分のためであると受け入れるのです。イエスこそ罪を取り除く神の子羊だったのです。これは、史実であり、事実として語り継がれています。パウロは、『5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。2コリント5:21新改訳2017』と宣べ、神の子羊が真相を説明しています。



 植物の園エデンで、「罪」に陥ったアダムとエバは、霊的に創造主である神【主】との断絶が生じ、肉体的死も自覚させられました。また、自分が裸であることを恥じるようになり、【主】が、動物を犠牲にし、その皮で衣をつくり着せてくださったのです。この犠牲の死が、天地創造以降の初めての死となりました。出エジプトの後に、律法が授与された時に、犠牲の動物などの規定が記されましたが、失楽園以降、犠牲の動物が捧げられたという記事もあります。明文規定がなくても、信仰者と創造主である神【主】との交わりの中で続いていたのでしょう。旧約時代は、イエス・キリストの十字架刑までの間、幕屋や神殿で犠牲の動物を捧げることで、その信仰を表明していたのです。あくまでも、『世の罪を取り除く神の子羊』が本体であり、犠牲の動物は、その予表だったのです。『紅の糸』と言われるのは、その流された血の筋をイメージしているのです。イエス・キリストの十字架刑以降、犠牲の動物は、必要無くなりました。『罪の贖い』つまり『人類の救済』は完成したのです。それが完結するのは、新天新地になってからです。
 
◆十字架を嫌うイスラエル 歴史が物語る
 16世紀のヨーロッパで展開された一連のキリスト教改革運動。 1517年、ルターが「九十五か条の意見書」を発表し、信仰のよりどころを聖書にのみ求めてローマ教皇の免罪符販売と教会の腐敗とを攻撃したことに始まり、たちまち全ヨーロッパに波及して、多くの紛争をひき起こした(コトバンクより)。
 このルターが「ユダヤ人と彼らの嘘について」という反ユダヤ的な論文を書いたという歴史があります。これが、聖書のヘブル的解釈から、さらに遠ざける要因となっていることは非常に残念でなりません。ユダヤ人の先祖がイエス・キリストを十字架で殺したという事実をどのよう見るかによって、その真意の理解度も変わります。特に、十字軍による進軍は、その古傷を抉り、感情的なこじれを深め、イスラム世界との摩擦を大きくし、イスラエルを硬直化させることになったのではないでしょうか?
 反ユダヤ主義の背景はとてもシンプルです。それは、悪魔(サタン)の感化によるもので、その目的は、創造主である神【主】の御業がイスラエルを通じて行われるので、その民族を皆殺しにすれば阻止できると考えているからです。歴史を見れば、エジプトの圧政、アッシリア捕囚、バビロン捕囚、ペルシャの圧政、ロシアでのポグロムナチスドイツのホロコーストなどがありました。しかし、その目論見は、多くの犠牲者を出しましたが、その目的は果たせませんでした。ですから、大患難時代の最後まで、悪魔(サタン)のあがきは続きます。
 イエス・キリスト昇天後の状況は、使徒の働きに記されています。それによると、使徒ペテロもパウロも、ユダヤ人がイエスを十字架刑に追い込んだ事実と、それがユダヤ人がどのように受け止めているのかを知った上で、福音を伝えています。それは、サンヘドリンに近い人たちは、「イエス」と呼ぶのを避け、『あの名によって教えてはならない 使徒の働き5:28』と表現します。これは、衝撃的すぎる事実と圧倒的な民衆の支持がナザレのイエスに向かっていることに対する嫉妬を露骨に表現しているのです。そこでペテロは『私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。使徒の働き5:30』と十字架の歪曲表現を使っているのです。これは、『木にかけられた者は神にのろわれた者 申命記21:23』からの引用と考えられます。ギリシャ語では、『クスロン(木)』が使われていることを考えるとペテロやパウロの配慮が浮かび上がります。そのショックは、今もなお、ユダヤ教界隈でくすぶり続けていることでしょう。それらから、解放される道筋はできていますから、一人でも多く解放されることを願っています。
 創造主である神【主】の選びの民であるイスラエル人たちは、捕囚や離散、流浪の中で聖書に出会い、ユダヤ教の聖書解釈と合わせて、新約聖書を研究するようになり、メシアニックジューと呼ばれるユダヤ人クリスチャンが増やされつつあります。彼らの信仰の歩みは、試練や困難が付き物だったようです。しかし、その一人である、フルクテンバウム博士が『イスラエル論』を論文にしたことから、聖書のヘブル的解釈が進展してきたと、私は考えています。
 それは、聖書の舞台がイスラエルであり、登場人物の大半も、筆記者も、イエス・キリスト自身もユダヤ人です。イスラエルユダヤ人、イエスがラビたちと対話した内容のヘブル的解釈がわからなければ、旧約聖書からの流れにも理解が及ばないのです。日本において、フルクテンバウム博士のセミナーを推進したハーベストタイムミニストリーズの中川健一師にも敬意を表します。

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