西暦2000年に公開された信仰者が空中携挙される光景を描いた本「レフトビハインド」を見て衝撃を受けた人が多いのではないでしょうか? 映画化もされました。そして、2014年には主役ニコラス・ケイジを起用してリメイクされました。動画配信サイトでも見られるはずです。
そもそも、信仰者の中でも、空中携挙に対する考え方には温度差があります。空中携挙がいつ起きるのか知っている人は誰もいません。それは、創造主である神【主】の専権事項です。
終末時代の雰囲気を強く感じ始めたのは、2000年あたりからだと私は考えています。でも、さらに、2020年代には、より色濃くなってきているように感じています。
これを記しているのは、2024年の8月です。感染症パンデミックやウクライナでの特別軍事作戦、ガザでの紛争が目立ちますが、世界のあちらこちらには、紛争の種が蒔かれ続けられています。その根はどこに繋がっているのでしょうか?
私は、クリスチャン家庭に生まれ、小さな時から聖書が身近にありました。聖書に触れながら生活をしてきました。また、育った教会では、ダニエル書やヨハネの黙示録についての聖書研究をくり返し聞かされました。それらへのイメージは、「コワい」というものが一番で、また、次に「難解だ」とも感じていました。福音に関しても、「救いよりも裁き」を強調されているように感じたので、私自身は、コワさを回避するために、キリスト教の信仰を持ったのが入口でした。ですから、今から振り返ると「救われたけれど、癒やされていない」という状況だったのです。
信仰の世界は、葛藤があり、絶えず揺らぐことを実感していて、癒やされた信仰者の歩みは、理想の領域だと感じる部分もあります。
私自身、『永遠の幸福マインド』という言葉を用いています。これは、『永遠にどんな時も究極的には大丈夫』という領域を私なりに表現したものです。
信仰生活には、肉体的生命と信仰者が与えられる霊的生命が共存し、その境界線を探る旅をしていたのです。肉体的生命は、寿命と共に閉じるもので、霊的生命とは、『永遠の生命(いのち)』とも言われる永遠を幸福に過ごせるものだからです。
この『永遠の幸福マインド』にたどり着くためには、いくつかの要素が必要でした。
その一つは、心理的な要素です。これは、主に米澤興譲教会の一元メッセージとTCSによって、葛藤ありの人生を受容することができました。さらに、隣人愛に対する理解にも、私の認識にあったボタンの掛け違いを修正するきっかけになりました。大切なのは『自己健全愛』を土台にすることだったのです。
もう一つは、聖書的基礎知識の再確認です。私は、ディスペンセーション神学をベースとする信仰的立場にいたことを学び直しの過程で再確認し、不思議な気持ちになりました。それは、ハーベストタイムミニストリーズのフルクテンバウム師のセミナーやメッセージステーションを通じて、それらを含めた自習やディスカッションを活用して行いました。
この機会は、キリスト教伝播の歴史を振り返ったり、聖書を理解するために必要な要素を確認する有意義なステップになりました。
私は、イスラエルからヨーロッパを経由して、アメリカから日本へ宣教師が伝えた福音の流れを受けています。それは、欧米の文化的背景をも織り込んでいるので、聖書の解釈を難しくしている要素なのだと気づかされました。アリエルミニストリーズのフルクテンバウム師やハーベストタイムミニストリーズの中川健一師は、聖書のヘブル的な釈義を大切にしている所から、聖書が記された当時のイスラエルの文化的背景から、福音書などを紐解かれているので、それを学びながら、スッキリとした理解を得た気持ちになりました。
また、世界で渦巻いている『反ユダヤ主義』についても、その背後に浮かび上がるさまざまな影を感じるようになりました。世界には、多くの国が存在していますが、見えない統治機構が存在していて、かつてのエジプトのファラオ、バビロン、カルデア、アッシリア、ペルシャ(メディア)、ローマ帝国などが、どこかに潜んでいるように見えます。ユーフラテス川を挟んだ攻防も、まだ、これからが本番の気配を見せています。
人間には世代交代が付き物です。また、歴史はその時の勝者によって修正され、名前を変えたり、姿を変えたりして、暗部は覆い隠されるくり返しです。シンプルに言うと、その背景にいるのは『空中の権をとる宰(つかさ)である悪魔(サタン)』です。近代史でも、機密解除された資料などを並べながら、歴史の真実を検証している人もいます。
イスラエルの現状と将来について情報を整理しておきます。