『叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。 坂口安吾『堕落論』(新潮社)』
第三者の目をどの様に感じるか問われているように感じます。
ガミガミ言われると鬱陶しいですが、何も無いと寂しいと言うのが、人間の正直な気持ちなのでしょうか?
「叱る母もなく、怒る女房もいない」というライフスタイルなのですね。
でも、その経験はあるような表現です。
男性は、女性からのひと言が、非常に重たく感じます。
それは、時には、お節介で、ふと何の前触れもなく、核心に迫ることをズバッと言ったりします。
それは、藪から棒が出てくるかのように、不意を突かれるのです。
心に、言葉の矢が刺さると言った方が近いかも知れません。
ある格闘家が、「どんなに弱々しい女性であっても、屈強な男性でも及ばない」と言っていたことを思い出します。
つまり、男性よりも、女性の方が圧倒的な強さを持っているというのです。
その女性と縁が無い状態でも、どこかで、意識してしまうのが男性なのかも知れません。
同じ屋根の下に、小言を言う家族がいなくても、世間体という目があります。
それを意識し出せば、キリがありません。
でも、自分は自由の身だからと、全く気にしないというのも、ナカナカできそうにありません。
ですから、「決して自由ではない」という結論に至るのでしょう。
人間は、誰にも縛られない自由を獲得していると知りながらも、どこか自ら不自由さに愛着を持つという天邪鬼な要素もあるのではないでしょうか?
人間は、不安要素も手放せない、ある意味、慎重な生き物なのかも知れません。
ただ、近年、社会性のなさから、孤立するパターンも増えつつあると聞きます。自己完結しすぎるのも、弊害がありそうですね。
ある程度の社会性を維持できる程度の自由を獲得していきたいですよね。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年〈明治39年〉10月20日 - 1955年〈昭和30年〉2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。
昭和の、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記など多彩な活動を通し、無頼派・新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。