『下らなく過ごしても一生、苦しんで過ごしても一生だ。苦しんで生々(いきいき)と暮らすべきだ。 志賀直哉『志賀直哉全集第6巻(らくがき三つ)』(岩波書店)』
多感で感受性が強い志賀直哉は、内村鑑三の講義を聴いて感銘を受けて、キリスト教には入信しなかったものの、大きな影響を受けたとあります。
ただ、身内との板挟みとなり、父との軋轢が生じる結果になったといいます。
本人が「品行点が悪かった」と説明している通り、自由奔放に振る舞う少年だったようです。
今で言うところの学級崩壊の先導的な立ち位置だったのかも知れません。
それは、落ち着きがないと評価され、二回の落第に繋がった要因だったようです。
そのエネルギーは、このフレーズに溢れているように感じます。
人間の一生は、安泰であれば、この上ない幸せだと考える事があります。
でも、そのような人生には、何か物足りなさを感じるのではないでしょうか?
だからと言って、波瀾万丈の極限状態を目指すのも極端な話です。
人生に伴ってくるものは、試練困難や病です。
それらに無縁に越したことはないのですが、突然に取り囲まれることもあるのです。
どんな状態におかれても、このフレーズを思い出しながら、励みたいと思います。
「苦しんで生々(いきいき)と暮らす」
そのためのマインドを鍛えておきたいと考えています。
志賀直哉 wiki
中等科在学中の1901年(明治34年)7月[14]、直哉は志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、新宿角筈で行われていた内村鑑三の講習会に出席する。そこで直哉は煽動的な調子のない「真実さのこもった」「胸のすく想いが」する内村の講義を聴く。「本統のおしえをきいたという感銘を受けた」直哉はこうして内村の魅力に惹かれ、以後7年間、内村に師事するようになる。直哉はのちに、自分が影響を受けた人物の一人として内村の名を挙げている[15]。ただし後述のように無宗教家であり、キリスト教には入信していない。内村のもとへ通い始めてから5ヵ月が経った同年11月、直哉は足尾銅山鉱毒事件を批判する内村の演説[注 1]を聞いて衝撃を受け、現地視察を計画する。しかし、祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対されて激しく衝突。長年にわたる不和のきっかけとなる。
中等科時代の直哉は真面目な学生だったとは言い難く、3年時と6年時に2回落第している。複数回の落第をしたことに対し直哉は「品行点が悪かった」ためであると説明している。授業中、口の中に唾がたまると勝手に立ち上がり窓を開けて校庭に向かって唾を吐くなど、教室での落ち着きのなさが目立ったために低い点をつけられたようである[16]。落第の結果、2歳年下の武者小路実篤と2度目の6年時に同級となる。途中、文学上の言い争いから直哉が武者小路に絶縁状をたたきつける事件[17]はあったものの、直哉と武者小路は生涯にわたって親交を結ぶことになる。