永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

心を揺さぶるアプローチ コミュニティかメシアか? 使徒の働き3:9-11

『3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
3:11 この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。 使徒の働き3:9-11新改訳2017』

当時のユダヤ社会は、どちらかというと閉鎖的というイメージがあります。

モーセ律法をどのように守り、【主】の御心を行うかという大切なテーマを実現するために、ラビに教えを請い、聖書朗読や解説を聞きながら、定められたことを行おうとしていたのです。

○○派という流れがあり、我こそは正統派という、本家争いのような、しのぎあいもあったことでしょう。

また、今日のように、聖書を所有したり、解説書を自由に見たりすることも制限される環境でもあったのです。

当時の人は、誰のどの言葉を信じるのかというテストを毎日のように受けていたかのようです。

その中で、起きた「生まれつき足の不自由な人」に起きたキセキは、大きなインパクトをもたらしたのです。

「ソロモンの回廊」は、ラビたちの解説を聞く場所でもあったようです。

そこに、集っている人々は、「ナザレのイエス・キリストの名」を知っていて、どのような事があったということも承知だったことでしょう。

しかし、彼らには、生活の基盤であるコミュニティーもありました。

それは、命を守るために大切な要素であり、そこに積み上がられた習慣は、離れがたい現実なのです。

今の時代でも、世界の各地で、ユダヤ人コミュニティーが存在し、家族の結束も固いと聞きます。その中から、クリスチャン(メシアニックジュー)になると決心する人が出てくると、家族から絶縁されるのだそうです。当人は生存しているのに葬式をすることもあるようです。

ファミリーとしての結束を維持することが、彼らの生きる術でもあるのでしょうね。

今日でも、そうなのですから、当時のユダヤ社会では、「ナザレのイエス・キリスト」をメシアとして受け入れることは、死を意味するに等しかったと言っても過言ではないでしょう。

イエス・キリストは、人間として義人でした。また、同時にイスラエルに約束されたメシアとして、来臨したことを示すキセキが行われ、それを額面通りに受け取れば、信じざるを得なかったはずなのです。

それでも、信仰者は少数派なのです。

その当時の人たちでさえ、そうなのですから、約2000年を経過した今の時代の人たちにとっては、信じがたい要素が、大きいのかも知れませんね。

二者択一の究極の選択にしてしまうと、モノゴトが複雑化します。

モーセ律法は、イエス・キリストによって全うされた。そして、「義の衣」は神の子羊によって備えられたのです。それを着る事によってのみ、創造主である神【主】の御前に「義」とされるのです。

「大丈夫!着てますよ(Don't worry I'm wearing)」と言える信仰者が増えることを願っています。