永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

礼拝の本質 自分たちの冠を投げる ヨハネの黙示録4:9-11

『9 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(ヨハネの黙示録4:9-11新改訳2017)』

「これらの生き物」と記してあるのは、特別な天使達を表現しています。【主】に「栄光と誉れと感謝」をささげるリードをするようです。

これは、父なる神【第一位格】に対する礼拝です。この内容は、万物の創造主こそ【主】(神)であり、それを支えている方であることを認めて、告白しているのです。

それに続いて「二十四人の長老たち」も礼拝をはじめます。

この「二十四人の長老たち」は、ペンテコステ以降の信仰者の集合体(キリストの身体なる教会)を表しています。彼らは、白い衣(罪赦された聖徒たちが着る義の衣)を着ています。天使ではなく、信仰による義人たちです。

彼らは、まず、「御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝」をしました。4つの生き物が捧げる礼拝に、24人の長老たちも参加したのです。

彼らは、「ステファノスギリシャ語)」と言われる勝利者に与えられる「金の冠」を頭にかぶっていました。聖徒たちは、褒賞のための裁きを受け【主】から授けられたのです。24人という人数は、教会全体を指す象徴的数字で、ダビデが、レビ人を 24の組に分けたこと(1歴24:3~5)に関連していると考えられています。

さらに「自分たちの冠を御座の前に投げ出して」献げたのです。これは、礼拝の中に含まれる行為です。

「金の冠」は、信仰者へのご褒美であり、それぞれが、床の間に飾りたいくらいの貴重なモノなのですが、自発的に【主】の御前に投げ出してしまうようです。

その理由は、「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」と言う、讃美と共に、【主】の「みこころや御業」を見れば見るほど、考えれば考えるほど、そのようにせざるを得ない心境にされるようです。

賛美と感謝は繰り返し捧げられ、彼らは、繰り返し神に栄光を帰しているのです。

ヨハネは、この光景を幻で見せられていますので、このような描写になっていますが、ここから、天においての「継続的な礼拝」が続くという事のようです。

天での礼拝には、どのような旋律が流れているのでしょうか? 美声の歌い手を、天使の歌声との形容がありますが、ここでは、かつてメシアであるイエス・キリストが誕生した時にベツレヘムの野原に鳴り響いたよりも、スケールが大きい天使の大合唱が繰り広げられるのでしょうね。

人間と創造主である神【主】との関係は、切っても切れません。

それならば、より良い関係性を探る方が賢明だと考える選択が、信仰者への道です。

どの道を選ぶのかは、一人一人の自由意志に委ねられています。

高価な壺や本を買わなくても、無代価の「義の衣」は、備えられています。