『10 知恵があなたの心に入り、知識がたましいに喜びとなるからだ。(箴言2:10 新改訳2017)』
身体を硬くして、畏まるのはなぜでしょうか?
神聖な儀式と考えれば、そうなるのも無理はありません。
しかし、奴隷状態からの解放は朗報です。
ましてや、永遠への希望は、大宴会をするレベル以上の大きな喜びです。
約2000年前、イスラエルのベツレヘムで、メシアであるイエス・キリストが赤子として誕生した時に、天使の軍勢が、大合唱をしていました。それを知らされたのは、野宿をしていた羊飼い達でした。
彼らは、御使いの福音を聞き、その赤子を訪ねて、大きな喜びを共有しました。
「知恵」や「知識」の本質には、悪を回避し、真理を理解し、それによってもたらされる喜びに誘ってくれます。
もちろん、マナーは大切ですし、喜びの表現にも、個人差が大きいということを理解しておく必要があります。
でも、喜びを噛みしめながら、それを共有できる空間がある人は幸せです。
信仰者には、【主】と交わり、信仰者同士この喜びを共有し、交わる特権があります。
特権というと優越意識を疑われますが、これは、これから信仰者になると言う人にも等しく与えられる物です。
『12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12-13新改訳2017)』
これは、選ばれた血統の人ではなく、全人類に【主】が備えられたのです。つまり、養子として「神の子」とされ、第二位格のイエス・キリストと、共同相続人としての立場が確約されるのです。
厳格な儀式が続けば、苦痛の時間です。足はしびれを切らし、腕時計を何度も見ることになるでしょう。
でも、楽しい時間であるならば、あっという間に感じるコトでしょうね。
一人一人にとって、大切な「知恵」や「知識」が見つかることを願ってやみません。
「知識がたましいに喜びとなる」という体験を積み重ねていきたいと考えています。