永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

どこまで耐えられるかを試されている 火の粉をどこまで振り払えるか?

人間の人生は、野生動物のように、命と隣り合わせというほどのギリギリではないにせよ、サバイバルゲームの様相を呈しています。

虐待やいじめなどに直面することがあり、それにどのように対処するかが、その後の歩みにも影響を与えることにもなります。

「試されている」一面に対して考えています。

それらは、忍耐力を養い、自分自身を鍛えたと思っていても、理不尽に感じる状況は、受け入れがたいことが多いですね。

一番、厄介だったのは、纏わり付かれることです。

多くの場合、いじめから距離を置くことで、回避できたのです。

でも、付き纏われるケースは、何らかの対応が必要でした。

引きこもり状態についての議論が今日もありますが、時には、亀が頭や手足を甲羅の中にしまって身を守るように、自分の身を守ることも必要だと感じたこともあります。

相手の目的がわかっていれば、要求に応えるか、拒否するかの選択肢があります。

でも、今で言うところの「ストーカー行為」に類することは、要求が分からない間は不気味ですね。

引いているだけで効果がないときには、キレてみたり、反撃を試みることもしてみたことがあります。

おとなしいだけだと、どんどん、行動がエスカレートしてくる傾向を感じたからです。

万能ではありませんが、警察の力を借りなければいけないこともありますね。

ある時には、やんわりと人質作戦を仕掛けられることもありました。

でも、相手の思うつぼにならないように、気力を振り絞って対峙しました。

随分、後になってから、ふと思ったのです。

相手の未成熟さに気づかなかった私が、未熟だったのだなあと。

傾聴も受容も限界があります。

それは、有限である人間の限界です。

どれだけ、バージョンアップしても、及ばないところがあると自己受容しました。

いまは、最初に関わるときに、免責事項的なことを説明するようにしています。

DVやいじめの渦に巻き込まれている人には、逃げ場、休場があるように願っています。

また、身近に頼れる誰かがいてくれることを切に願います。

決して、あなたの人生をあきらめないでほしい。