永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

捧げるのは金品ではなく… 箴言20:25

『軽々しく「これは聖なるもの」と言い、誓願を立てた後で吟味する者は、罠にかかっている。(箴言20:25新改訳2017)』

いったん献げると決めたのに、あれこれ考えて、やっぱり辞めておこうとする人もいます。

どこか、【主】と取引しようと、交換条件を出してみたりすることも、あるかも知れません。

【主】が喜んで下さるのは、心からの礼拝であり、心から献げることです。

見返りを求めて、条件をつけて寄付をするのとは、かなりの温度差があります。

新約聖書使徒の働き5章の「アナニヤとサッピラ」のストーリーは、心を探られ考えさせられます。

【主】に対して、どのような心を向けているかは、自分自身が理解できているのですね。

持てる人にとっては、資産管理は、悩ましいもののようです。

【主】と信仰者自身の「タテの関係」が大切なのですね。

心から献げることは、他者が介入をしてはいけないコトだと感じています。

導きに応答して献げるという基本スタンスが肝要です。

教会堂を建てるとか、宣教旅行をするという理由で、献金を募ったりする事がありますが、強要脅迫的なアプローチがあるとすれば困りますね。

多く起きていることは、教会堂を建てるまでは、謙遜を装っていて、建物ができると居直って、教会員が分裂するという現象は、あちこちに散見されます。

それよりは、安全性を確保した上で、古屋でも、【主】にある交わりが積み重ねられている方が、【主】が喜ばれるのではないでしょうか?

集う方々が、祝福されていて、献堂された会堂で、【主】にある礼拝と交わりができるのがベストです。

金品を扱う所には、様々な不安が渦巻き、誘惑も大きくなります。

必要なコトの積み重ねと、祝福がこぼれ出るような所からでるものが、「真に喜ばれる香ばしい献げ物」なのだと考えています。