永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

モーセの3回目の登山 出エジプト34:1-9

『【主】はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(出エジプト34:1-9新改訳2017)』

シナイ山は、標高2,285mあります。自力で登るしかないですから、かなり高齢のモーセには負担が大きかったでしょうね。しかも、3度目の今回は2枚の石板を持参しなければなりませんでした。

それは、前回、【主】が用意され、【主】によって律法が刻字された石板をモーセが粉々に割ってしまったからでした。律法の石板を割るのはシナイ契約の破棄を意味します。これで、【主】との関係が終わりになる可能性もあったのですが、【主】のご計画は、次のステップが用意されていたのです。

それは、シナイ契約の再締結でした。モーセは、【主】とイスラエルの民の間に立って、怒ったり懇願したりして、ヤキモキしていたことは想像に難くありません。それでも、自らの使命を命がけで果たそうとしていたのです。スゴい気力というよりも気迫さえ感じます。

【主】は雲の柱として存在を示し、モーセが登ったシナイ山の山頂に顕現されました。会見の天幕で現れた雲の柱と同じです。シャカイナグローリーの中から「主の御名を宣言された(出34:5新共同訳)」のです。これぞ、【主】の本質で、モーセが祈りで願ったことでした。

『「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト34:6-7新共同訳)』

【主】の栄光の啓示では、「ヤハウエ、ヤハウエ(原文)」とされているので、2回繰り返される時には強調する用法です。主語にしてしまうとニュアンスが弱くなると言われています。

【主】の性質は、8つ「【主】、【主】」「あわれみ深く、情け深い神」「怒るのに遅く」「恵みとまことに富み」「恵みを千代まで保ち」「咎と背きと罪を赦す」「罰すべき者を必ず罰して」「父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる」と宣言されています。

恵みとまことに富んでいるので、イスラエルの民を通して、ご自身を全人類に啓示され、シナイ契約を再締結するという恵みを与えられたのです。

「罰するべき者を必ず罰する」というのは、非常に重要です。罪を赦すのは【主】の弱さではなく、義と愛をもって筋道を備えて為されます。つまり、信仰者は無罪とされますが、無実ではないのです。どっちみち赦されるのだから罪を犯しても良いという口実を使うのは、的を射ていないのです。

呪いは3代から4代に及ぶという部分も、引き継ぎ、背負わされる子孫にはたまったものではありません。でも、それぞれが、【主】を見上げて、恵みを頂くということを妨げているわけではありません。

呪いよりも【主】の恵みの方が強力なのです。