『最大のあやまちは、どんなあやまちを見ても少しも気づかぬことである。 カーライル』
[トーマス・カーライル](19世紀イギリスの思想家・歴史家、1795~1881)
人生はあらゆる刺激に満ちていますから、気づきの連続かと思いきや、真逆というナカナカ鋭い指摘です。
二度と同じ失敗はしたくないと考えていても、気がつけば同じようなくり返しをしているという経験があります。
自分の人生を顧みても、人間が変わると言うことが、いかに難しい要素があるコトを自覚しています。
変わろうと決断しても、変わったという変化の習慣化ができていないと気づくのです。
以前に比べれば、変えられる部分は、幾分かはあります。柔軟性は広がりました。
でも、変わらない部分はあります。
それも、私だと言うことで受容しています。
このフレーズのもう一つの指摘は、結果から逆に考える習慣化ではないかと推察します。
「あやまち」は、自分のした事の結果に留まらず、誰かのした事が招いた結果と考えるコトもできます。
「あー、○○さんがまた同じようなコトをしでかしている。」などと、言うことは簡単です。
大切なのは、何がどうなって、その様な結果に至ったのかという考察です。
そして、どうすれば違う結果になるのか?
具体的にどのように取り組む事ができるのか?
いろいろな考察を巡らすことはできます。
結果責任だけに拘るのは、視野を非常に狭くしてしまう可能性が高いです。
「人の振り見て我が振り直せ」というコトバがあるように、自分自身をも客観的に観察して、結果からカイゼンをしていく習慣化をモノにしていきたいと考えております。