永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

偶像崇拝とは? 貪ること 出20:23

『あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。 (出20:23新共同訳)』

人間には、色々な望みがあります。

希望、願望、欲望という類いです。

強い決意と共に、ターゲットを見据えて行動していく人生も素晴らしいです。

でも、それに集中するあまり、多くの人がガマンを強いられたり、迷惑を被ったりという事には配慮も必要です。

肉体的生命の期間はあらゆる事にチャレンジができます。

しかし、人を騙したり、陥れたり、奪ったりしてでも目的を遂げたいというならば、それは、貪欲です。

その気持ちこそ、手段を選ばずに、自分の欲望を遂げたいという気持ちの根元にあります。

創造主である神に背を向けてでも、自分の欲望を叶えたいというその部分が偶像崇拝を生み出してしまうのです。

『だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。(コロサイ3:5新共同訳)』

そして、自分の目に見える頼りたいカタチを生み出すコトになります。

それが、金の子牛であったり、絢爛豪華な装飾をあしらった宮であったり、ありがたみを感じる仏像などになるのですね。

創造主である神は、イスラエルの民に対して、祭壇や幕屋をつくる指示を出した時に、凝った細工をしないように命じたのには、これを防ぐ為だったのです。

ある人は「宝くじが当たるなら何でもする。」と言っていました。

自分の願いが叶うなら、何でもするという気持ちがあるのですね。

でも、実際には、願いが叶うことが少ないと考えれば、さらに、自分の欲望を支えてくれそうな偶像を増やそうとするというのが、人間の本性なのかも知れませんね。

不思議なコトに、人間の周りには、本当に大切なモノがある(備えられている)のではないかと思うことがあります。

しかし、欲にまみれた心や、曇った目では、それらを感じられないのではないかと考えています。

それは、かなり後になってから気づくことの一つなのでしょうね。

「あの時に、私にはあんなにチャンスがあったのだ。」と、ふと思い出すこともあるからです。

その時のセンサーでは、察知できないという事なのでしょうね。

アレがないコレもないと考える前に、目の前にアル事柄に目や意識を向けていきたいと考えています。