『アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6新共同訳)』
イスラエルの民は、創造主である神に、一方的に選ばれました。
それは、創造主である神の召しに応答したアブラム(アブラハム)の信仰が基礎になっています。
律法を守れば救われるのではありません。救いの条件は、「恵により、信仰によって救われる」のです。
アブラムは十字架の贖いについて知る由もありませんが、神の約束を信じた信仰によって義とされたのです。
いつの時代の信仰者も、その時代の神の約束を信じる信仰によってのみ救われるのです。つまり、信仰者は、アブラム(アブラハム)を信仰の父と位置づけています。
遡ると、アブラムは、月神礼拝の中心だったカルデアのウルから導き出されました。移動した先のハランも同様の因習が盛んな土地柄でした。今なら、インターネットで、これから移動するところがどのようなところかを、事前に調べることもできます。しかし、その時代には、信仰による応答と行動しかなかったのですね。
アブラムの移動範囲は、ウル、ハラン、イスラエル、エジプトでしたが、当時の移動手段では、途方もない距離だったのだろうと推察します。
移動に時間を要して、どんどん年を重ねていきましたが、創造主である神が示された星の数ほどの子孫の約束は実現しないままでした。
しびれを切らしたサラは、奴隷のハガルを通じて、子孫を得ようと画策して、イシマエルを授かりました。でも、それは、創造主である神の計画とは違ったのです。やがて、人間的には限界を超えた年齢で、サラとの間にイサクを授かりました。これぞ、まさしく神業ですね。
サラは自己保身から、イシマエルとハガルをいじめましたが、創造主である神は、イシマエルにも多くの祝福を与えて、今日でも、多くの子孫、多くの土地があります。