永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

イスラエルの民の不満はどこに向かっているか? 出エジプト17:1-3

イスラエルの全会衆は、【主】の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ【主】を試みるのか」と言った。民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(出エジプト17:1-3新改訳2017)』

イスラエルの民は、「主の命により」、シャカイナグローリーに導かれて荒野の旅を進めていました。

夜は火の柱、昼は雲の柱がイスラエルの民を導いていたのです。

冷静に考えられる心理状態ならば、創造主である神が共にいて、イスラエルの民を保護して下さることは理解できたことでしょう。

しかし、多くの人々と多くの家畜を連れて大移動の旅を続けているのは荒野ですから、そのロケーションにフォーカスしてしまうと、「これからどのようになってしまうのだろう?」という不安に襲われるのも仕方のないことです。

ここに来て、大問題が発生しました。

飲み水がなく、モーセに対して、「われわれに飲む水を与えよ」とせまり、争ったのです。

しかし、その不満は、モーセを経由して、創造主である神に向かっていたのです。

マラでは「水が苦い」と言って飲みやすい水を出してもらい、シンの荒野では「エジプトでは、肉もパンを腹いっぱい食べた」とも言って、うずらとマナを与えられることになったのですが、またここでも、「水が無い」とモーセに挑んだのです。

イスラエルの民の中には、主がして下さった天来のめぐみを覚えている人もいたと思いますが、非常に少数派だったのでしょうね。

「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」との不満の叫びは、創造主である神がイスラエルの民を本当に守って下さるのかどうかを疑っているのです。

すごく大げさな表現ですよね。奴隷状態から解放されて、約束の地への旅路をしている人たちが、「奴隷とされていたエジプトの方がマシだった」と表現してしまうのですから、実に不思議です。

これは、どれだけ過酷な環境でも慣れ親しんだ習慣は快感も伴うのではないかという、恐ろしさを感じる要素も孕んでいますね。

例えば、せっかく広い家に引っ越しても、リビングに全員集合的なイメージでしょうか?

実際問題として、喉の渇きを感じたのなら、大抵の人は冷静ではいられないでしょうから、目の前にいるモーセに詰め寄ったのですね。