永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

わかりやすい聖書ガイドヨハネの黙示録発売中。肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

幸福と災い…ヨブの考え方

『すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。(ヨブ2:9-10)』 

 

この部分は、祝福と思っているものが取り去られたと感じた時に、人がどのような気持ちになるのかを描写しています。

「がっかり」するのですね。

この一言で、ヨブの妻は、悪妻のレッテルを貼られたりするのですが、ヨブに連れ添って祝福を見てきた彼女には、子どもや財産を取り上げられ、自身も正体不明の腫れ物に苦しめられるという状況が、ショックだったのではないでしょうか?

「なんでこんなことになっているの?この人は悪いことをしていないのに?」

創造主である神に対する疑念がもたげ、いのちをとられる恐怖に取り憑かれたのでしょうか?

サタンの策略は、ヨブの妻をヨブから引き離すことだったのですね。

それでも、ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」と創造主である神に対する信頼を変えようとしませんでした。

これは、イエス・キリストゲッセマネの園での祈り「…御心のままに…」に似ていますね。

ヨブは「いのちをとられる恐怖」を感じずに「唇によって罪に陥ることはなかった。」のですね。究極的な信仰者のお手本なのですね。

同じことができなくても、創造主である神の主権を認め、「御心のままに」と祈れる信仰を育みたいですね。