永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

光のあるうちがチャンス

『さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。(ルカ23:44-45新改訳2017)』

イエス・キリストが十字架に架けられた時、地上は闇に覆われました。この記録は、中国などにもあるようですね。今から、約2000年前の話です。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。(ヨハネ3:16-21新改訳2017)』

そもそも、十字架による贖いは、エデンの園で神が全人類のために約束をして下さり、それが成就したのです。ここで、記されているのは、光である存在を愛さずに、闇を愛する人がいるということです。悪を行う人は、悪事が明るみに出ることを嫌って、光を憎み闇を愛するのですね。これは、今に始まったことではないようですね。光がある、明るいところにとどまりたいモノですね。

『そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。(ヨハネ12:35-36新改訳2017)』

私たちには、影や闇が付きまとってきます。影は、自分の姿の投影ですから、自分を正しく認識するために活用できるのですが、闇は飲み込まれたら行き先を見失ってしまうと警告されています。光があるうちに、そのチャンスを生かしたいですね。