『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9新共同訳)』
赤ちゃんは、無防備なのに、王様のようだ。などと言われます。
最近は、養育者不在の悲しいニュースを耳にしたりしますが、多くの場合、そばに養育者がいて、ニーズを探り最大限のケアをしてくれるのです。
ここにも、この聖句のエッセンスがあるように感じます。
元気だった人が、突然、病に伏せったときに、この聖句を聞かされても、ピンとこないのかも知れません。
嫌と言うほど、弱さを思い知らされた人が、弱さという衣を着た祝福という理解をするのでしょうね。
弱さとは、肉体的な弱さであったり、メンタル的な弱さであったり、霊的な弱さであったりします。
復活の主を受け容れた信仰者の心には、助け主である第三位格の聖霊の内住するスペースが設けられます。
人の心は、狭いとか広いとか、評価されるように、それぞれに容量があるのかもしれません。
そのスペースを信仰者と内住して下さる聖霊がシェアするのです。
ですから、私の心がしぼんでいるときには、内住している聖霊のスペースが広がると考えると、弱いときに、助け主によって強くなることができるのですね。
また、信仰者の人生は、人の努力と神の助力の共同作業ですから、このバランスが取れなくては、妙なことになってしまいます。
自分の分を常にわきまえて、自分がすること、ここからは、神に委ねることという区別をつけられると、自分の分に集中できるのですね。