人が与えられたことは何かを考えてみます。
それは、いのちですね。
そして、致死率100%の肉体ですね。
最初に創造されたアダムが犯した原罪ですね。DNAが確実に後世に伝えていますね。
最後に、備えられた贖罪ですね。
『そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」(【新改訳2017】ヨブ 1:21)』
アダムとエバ以外は、全人類、母の胎から裸で何も持たずに生まれて来たのですね。
そして、肉体的生命を終える時も、何一つ持たずに裸で逝くのですね。
一方、人が課せられた課題は?
与えられたいのちの時間をどう使うか?(生きるため)
創造主である神に対する態度を決めること。(肉体的生命の終活)
他にも、思いつくかも知れませんが、聖書的に絞り込むとこのような感じになりますね。
『【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」(ヨシ24:15【新改訳2017】)』
主と書かれているのが、創造主である神のコトです。
主に仕えるのか? 他のものに仕えるのか? の決断をする必要があるのですね。
主に仕える決断をしなければ、自動的に「No」の決断が適用されるのですね。