永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

人として解決できること

人が与えられたことは何かを考えてみます。

それは、いのちですね。

そして、致死率100%の肉体ですね。

最初に創造されたアダムが犯した原罪ですね。DNAが確実に後世に伝えていますね。

最後に、備えられた贖罪ですね。

『そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」(【新改訳2017】ヨブ 1:21)』

これは、アブラハムと同時代に生きた族長ヨブの信仰告白です。

アダムとエバ以外は、全人類、母の胎から裸で何も持たずに生まれて来たのですね。

そして、肉体的生命を終える時も、何一つ持たずに裸で逝くのですね。

 

一方、人が課せられた課題は?

与えられたいのちの時間をどう使うか?(生きるため)

創造主である神に対する態度を決めること。(肉体的生命の終活)

他にも、思いつくかも知れませんが、聖書的に絞り込むとこのような感じになりますね。

『【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」(ヨシ24:15【新改訳2017】)』

主と書かれているのが、創造主である神のコトです。

主に仕えるのか? 他のものに仕えるのか? の決断をする必要があるのですね。

主に仕える決断をしなければ、自動的に「No」の決断が適用されるのですね。