タイトルは、精神科医である工藤信夫医師の診察を受けた男性が妻に語ったことばです。
「オイ、病気は必ずしも治らなくてもいいんだって。工藤先生は、人間、治らない病気を抱えていても生きていく道があるから自信を持て、とおっしゃった。」と新しい道でも見つけたような喜びを持って帰ってきました。
わたしは、あんなに生き生きとした主人を、長い間、見たことがありませんでした。
(福音は届いていますか?工藤信夫著…p285より引用)
人生の中では、完治する病気と、不治の病気があります。
本人や家族の願いは完治であっても、不治であるコトが、現実的にはあるのですね。
聖書の中には、このような記述もあります。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハ9:1-3【新改訳2017】)
人がハンディキャップを負うのは、「神のわざが現れるため」と記されています。
ハンディを背負うのは、多くの制限も出てくるでしょうが、創造主である神のわざが現れるとのことですね。
軽々にはいえませんが、あえて言うならば、制限が与えられた自由を抑圧するのではなくて、制限の中にあっても自由は満喫できるということなのでしょうね。
制限があってもなくてもという視点で現実を見てみるとマインドも変わるのではないでしょうか?