『生まれながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた…ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。…「金銀は私には無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」こう言って彼の右手をとって起こしてやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって躍りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。…(使徒行伝3:1-10)』
生まれつき歩けない男性を人の往来が多い所において施しが得られるように配慮していたとあります。それも、助け方の一つですね。
そして、施しをするというのも、別の助け方の方法ですね。
この二つの助け方しか、生まれつき歩けない男性は経験してこなかったのかも知れません。
でも、ペテロとヨハネは違いました。
金銀を施してくれるものかと期待していた彼には思いもよらない助け方が提示されたからです。
「イエス・キリストの御名による癒やし」という究極の助け方だったからです。
生まれて初めて立てたこと、歩けたこと、踊れたこと、それまでの彼には、別世界の経験だったでしょうね。
何が、相手にとっての助けになるのか、分からなくなることがあります。
施すこと、介助すること、時として、見守ること、色々な助け方があることを思いめぐらしながら、最善を探ることも大切なのですね。