永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

勧善懲悪はわかりやすい、今の世の中にも水戸黄門待望論が、、

ヤクザから牧師になりました。
薬物中毒から抜け出せました。
すばらしいです。
ヒールからベビーフェイスへの転換は非常にわかりやすい。

昔、自動車学校で出会ったおっさんは、「一週間もあればいろいろな悪いことを経験できる」などとニヤけてささやいていました。
もちろん、ついていきませんでしたよ。

普通の状態から、非行?に走るのはショートカットが可能ということでしょうか?逆に戻ろうとしても、なかなか状況も自分の心も戻せない泥沼が待っているのでしょうね。

一方、理不尽さを感じている、ずっと真面目に生きてきた人たちもいるのですね。

自分は、悪いことをしないで生きてきたつもりなのに、何か報われない感じがする。
「さんざん、悪いことをしてきた人たちのほうが、得しているのではないか?」
と、感じる人たちもいるのです。

 

「それぞれの人生があるのだ。」と受け入れるほかないようですね。

 

もう一つは、アダムから受け継いだ性質が、自分の本意ではないけれども、メシアであるイエス・キリストを十字架につけることになったという現実です。

 

「どうすることもできない負の遺産(罪)の小切手に保証の裏書のサインを命をかけてメシアであるイエス・キリストがしてくださったのだ。」

と感謝して受け入れると自分を責めずにいられるようになるのですね。

 

肉体の世界にいる限り、何らかの形で、「理不尽」を味わい続けることにはなるでしょうけどね。

 「汝らの為し得るかぎりつとめて凡ての人と相和らげ。愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ…悪に勝たるることなく、善をもて悪に勝て。(ロマ12:18-21)」

「…キリストの血により近づくことを得たり。彼は我らの平和にして己が肉により、様々のいましめの規より成る律法を廃して二つのものを一つとなし、怨みなる隔ての中垣を毀ち給えり。これは二つのものを一つの体となして神と和がしめん為なり。(エペソ2:13-16)」